(1)
母上は・・・キリル大公殿下の御赦免もあの神父の擯斥も、皇后陛下に幾度も進言されていた。
もっとも由緒ある侯爵家としてそれが責務だとのお考えだったが、献言はついに受け入れられず、反対に、正式に申し渡されたわけではないが宮廷から遠ざからざるを得なかった。
耐え難い屈辱だ。
陛下は・・・帝国の未来を大局からではなく、妻の好悪によって左右されておられる。
その"妻"は、ようやく授かった未来の皇帝の御命を守るために・・・。
しかし今は玉座そのものが揺らいでいるのだ。
帝政とは何と因果なものよ。
血統を守ろうとすればするほど存在自体が危うくなっていく。
ヨーロッパの王室すべてに潜む血の呪い。
政略結婚のもたらした平和と引き換えに。
ついには我が帝国の息の根を止めるのか。
* * * * *
(2)
安らげるのだろうか・・・この子が生まれたら。
レオニードの話は嘘ではなかった・・・嘘はつかないのね、私には。
棄てるつもりはないみたい、今のところは。
今度は子ども部屋まで改装し始めた・・・あの人は・・・あの人だって酷い人だけれど・・・でも、でも、お父様ほどではない。
私がこれからも静かにここに生きて、彼の望むように振舞ってさえいれば、クラウスは生きていられる。
ただおかしな話だけれど、私が生きていくには安らぎが必要・・・この手の中に感じられる安らぎが・・・汚れていない温かさが。
ともかく産もう、ここで。
それからは・・・わからない。
熱が冷めてそれっきり足が遠のくかも知れないし。
だって・・・あの人が子どもをあやすなんて想像つかないもの。
でも、そうだとしても私はここで育てていこう。
クラウスを守ることになるのだから。
*
だけど彼の言う通り、もう会うなんてできない。
お母様と同じ。
私がいたから先生には会わなかった、あんなに愛していらしたのに。
会えるとしたらそれは、アナスタシア。
彼に相応しいのは彼女。
もちろん彼女にも子どもがいるなら無理だけれど。
ああ、そうだ。
もう少し具合がよくなったら・・・劇場に行きたいって言ってみよう。
会えるかも知れない。
人の目は気になるけれど、ほんの少しでも彼の様子が聞きたい。
きっと彼女なら何か知っている。
* * * * *
(3)
アンナが青い顔をして入ってきた。
「どうしたの?」
「・・・皇后陛下が奥様をお召しに・・・アニクシン男爵と馬車を寄越されました」
「?」
「これからすぐに冬宮に参内されるようにと」
「皇后陛下? なぜ皇后陛下が私を?」
「理由は問うなとおっしゃいました」
「・・・断れ・・・ないわね・・・。皇后様のご命令では・・・。では男爵には暫くお待ちいただいて。急いで拝謁に相応しい装いをお願い」
何だろう、突然、皇后陛下からのお召しって・・・。
レオニードはまた国境を回っているから、どうしたらよいか尋ねることもできない。
ともかく不興をかっては彼のためにならない。
*
降りていくと、初めて会う男爵が何やら好色な表情を見せて挨拶した。
下品・・・そう、その言葉が不気味なほど似合う男。
何故かアンナの同伴を許されず、二人で冬宮に向かった。
ずっとじろじろと見ていたので、この人が本当に皇后様のお使いなのか不審に思ったけれど、馬車には確かに御紋があったし・・・。
*
冬宮に着くと皇族や許された貴族しか入れない最奥に導かれた。
拝謁の時に通された一角。
男爵と共に待っていると、思いもかけない人物が入ってきた。
アデール様!
私はただ頭を垂れ腰を屈めるしかなかった・・・何と言っても侯爵夫人であり、皇帝陛下の姪姫なのだから。
「神父様、これが夫を誘惑した穢らわしい女です、その上、子どもまで!」
神父と呼ばれたのは、アデール様について入ってきた大柄で異様な男だった。
神父?
もしかしたらラスプーチン神父?
「アデール姫、お任せあれ、拙僧が厳しく仕置きをし、二度と不埒な考えを起こさぬように致しましょう」
え?
久しぶりに耳にしたくぐもったロシア語、何とか聞き取った。
仕置き?
確か仕置きって・・・?
ああ、逃げなくては!
一歩後ずさりしたところで男爵に腕を掴まれ、二人の前に投げ出された。
ああ、赤ちゃん! 赤ちゃんを守らないと!
アデール様は幾度も鞭を振り下ろした。
私は必死にお腹を抱えて耐えた。
女の力とは言え憎しみの満ちた鞭のもたらす痛みは凄まじく気を失いそうになったけれど、赤ちゃんを思うとそれだけはできなかった。
訳が分からない!
どうして私を? 赤ちゃんを?
文句があるのなら夫に言ってよ!
私はただ・・・あなたの夫にいいようにされているだけ! 逆らうこともできずに!
あなたが彼を満足させられないから、その身代わりに!
「アデール姫、これ以上は姫君のお手を煩わせるわけに参りません。どうぞ拙僧にお任せを」
「お願いしますわ、ラスプーチン様。聖なるお力でこの女を罰してください」
息を切らしたアデール様が出て行かれるのが屈み込んだ私にも見えた。
これからどうなるのだろう・・・レオニード!
*
気を失いかけている私の両手を縛りつけ、男爵は出て行った。
部屋には神父と私だけ、これ以上はないという嫌な予感がした。
「さて・・・まずはそなたを知りたいものだ。名前は・・・マフカと呼ばれているそうだな? ウクライナ出身というのは本当か? 家族はどこにいる? 貴族か? 商人か?」
「・・・」
「侯爵とはどういう関係だ? 体の関係だけではあるまい? 何のためにこの都に来た?」
「・・・」
「これは・・・小娘のくせに随分と強情なものだ、皆、私に恐れ戦くというに」
神父が傍らの香炉に何か薬草のようなものを焼べると忽ち白い煙が上がって部屋中に広がり、それを吸うと意識が朦朧としてきた。
そんな私に神父は瓶と細長いものを見せた。
「これはの、子どもを堕ろす道具じゃ。わしが手ずから取り出してやろう」
「やめて! やめてください!」
「何の、どうせ不義の子じゃ、このまま生まれたからといって幸せにはなれまい」
「お願い! やめて!」
体の奥から恐怖が湧いてきた。
助けて、レオニード!
「衣服は不要じゃな・・・」
神父は大きなナイフを使って私から一切の衣服を除いていった。
切っ先が突き刺さりそうで身動き一つできなかった。
それからごつごつとした長い指で全身を撫で始めた・・・。
「なんと・・・ひどい有り様じゃの。これは銃か? 刃物か? 傷だらけではないか。これは、わしに話すことが大いにありそうじゃ」
乱暴にされたら!
意を決し逆らわず彼が望むであろう嬌声をあげ、求めた。
一息ついた時、慌ただしく扉が叩かれ、皇太子殿下が倒れられたという知らせがもたらされた。
「侯爵が執心するのも頷けるわい。しばし待っておれ」
「お願いです、手を、手を解いてください、痛むのです。神父様のおっしゃることに従いますから」
私に満足していた彼はこの願いを聞いた。
*
力の入らない手で衣服の残骸をコートで覆い何とか身なりを整え、連れてこられた道筋を思い返した。
まず外に出よう、入るのは難しくても出るのはそうでもないはず。
息を落ち着けてから扉を開けると、幸い見張りはいなかった。
本当に嫌だったけれど、私の演技が警戒を解いたのだ。
あまり急ぐとかえって怪しまれる。
焦る気持ちを抑え、普通の様子で通り過ぎたからだろう、門兵に見咎められることはなかった。
そこにアンナが駆け寄ってきた。
馬車に飛び乗って屋敷に戻った私は、医者を呼ぶと言うアンナを、レオニードの名誉に関わるからと制し、すぐさま湯浴みをした・・・穢らわしいあの俗物の痕跡を消す為に。
何があったのか、手当てをしながら尋ねてきた。
「聞かないで。それにレオニードに今日のことを言っては駄目よ、心配するから」
* * * * *
(4)
あの忌まわしい出来事の記憶が蘇ってくるのを封じようと、早く激しい曲ばかり弾いていた。
赤ちゃんにはよくない。
でも思い出すと気が狂いそうになる、もう少しだけお母様の我儘に付き合って・・・。
*
一週間ほどして彼が戻ってきた。
口止めはしたけれどアンナが黙っているはずもない、電報を打たなかっただけでもよしとしないと。
夢中なあまり、入ってきたことに気づかなかった。
弾き終わった私と視線が合った。
「何があった? 何をされた? 誰がやったのだ?」
「・・・そんなに一度に聞かないで・・・」
「悪かった、だが・・・」
「・・・ねえ・・・私は赤ちゃんのために行動した・・・だから・・・許して」
「許す?」
「・・・それに、もういいの、このことは忘れて。あなたも狙われてしまう」
「狙われる? 何を言っているのだ」
「ね! 約束して。私を許すと。それから、忘れると」
「訳も分からず約束などできぬ」
「約束してくれなければ話さない!」
腕を振りほどき、数歩離れて相対した。
・・・分かったようだった、何があったのか。
* * * * *
(5)
アニクシン男爵は・・・例の取り巻きの一人だ。
陛下の馬車を自由に使える・・・あの神父だ、あの男が・・・。
お前・・・。
じっと見つめている、私を・・・是非もない。
「約束する、許す、そして忘れる、だから話してくれ」
*
長椅子に座り抱き寄せたが、目を合わさず俯いたまま話し始めた。
淡々と続けた。
だが、それは激しい感情の裏返しだとわかっている。
瞋恚の炎を燃え上がらせれば、子に障る。
あのピアノがせめてものお前の発露なのだろう。
機転を利かせ逆らわず、隙をついて脱出に成功した。
それだけでお前の素晴らしさがわかる。
子のために悍ましい屈辱に耐えたのだ。
許すも何もない。
「ありがとう・・・よくやった」
「え?」
「守ってくれた。私たちの子を、そしてお前自身を」
「レオニード・・・」
*
情けないが、今、奴に鉄槌を下すことはできぬ。
だがいずれ必ず。
アデールとは終わりにしよう。
互いが最初から望んでいるのだ、これ以上先送りする理由はない。
義務で結婚し、跡継ぎの為に夜を共にしただけだ、あの時までは。
石と罵ったが、アデール、ではお前は何だ。
私の愛する者達に危害を加えた女を、例え陛下の姪でも宥免できぬ。
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