(1)
「ラドガに行こう」
「?」
「休暇を取った。暫くのんびりしよう」
のんびり?
凡そあなたに似合わない言葉、いつものあなただったら。
でも、暗殺からの日々を考えると、さすがのあなたも休みたいと言うことね。
*
あの日、凶報は別邸に齎された。
モスクワ知事を解任され都に戻る途中で、あの伯爵と女侯爵は賊に襲われ殺害された。
彼はひどく後悔した。
帰京の報せは受けていたのに、不穏な空気を感じていたのに迎えに行かなかったことを。
でも例えあなたがいても・・・あなたも殺されただけだと思うけど。
*
落ち着くためか、馬車を待たせ、暫く一人書斎にこもっていた。
物が落ちる音、壊れる音を耳にして入ると、初めて見る有り様の彼。
剣を振り回し家具やカーテンを手当たり次第斬りつけていた。
私はしがみつき、幾度も名前を呼んだ。
ようやく気づいて剣を手放し、私を見つめ抱き締めた、そして縋って泣いた。
あなたが泣くなんて・・・人に縋りついて泣くなんて・・・。
*
それから本邸で起こっただろうことは、ここには不思議なほど無縁だった。
勿論使用人たちは消沈していたし私も喪服を纏ったけれど・・・愛人が葬列に加われるわけもなく・・・。
犯人は・・・表向きはレオニードを恨んでいる活動家たちとされ、都でもモスクワでもそれを理由にした取り締まりと弾圧が行われているが、本当は・・・侯爵家を煙たがっている勢力だと、状況を説明に来てくれたシュラトフ大尉が言葉を濁しながら話していた。
数年前から宮廷に出入りしているラスプーチンという神父とその一派。
公然の秘密である皇太子殿下の血友病の発作を鎮められる唯一の人間で、皇后陛下から絶大な信頼を得ているらしい。
出自は怪しくても、貴族も軍人も政治家も、男も女も、権力のおこぼれに預かろうと集まっているとか。
今回のことも証拠もない上、捜査機関ですら彼らの息がかかっているので、真相究明はほとんどなされないだろう。
「レオニードの様子は?」
「沈黙を守られておられます。ひどくお苦しみのご様子で」
「そう・・・」
*
お父様・・・。
結局、血の繋がらない娘に殺された、先妻と部下の密通でできた"娘"に。
一度は捨て、利用するために呼び戻し、ずっと私を縛りつけてきたお父様。
死んでも涙なんか流すとは思っていなかった。
なのに、それでも・・・この世で父と呼べるたった一人の人だった。
涙が止めどなく溢れた、お姉様たちは一筋さえ流さなかったけれど。
あなたはお父様を愛していたのね、本当に。
* * * * *
(2)
列車と馬車に揺られ、夕刻に別荘に着いた。
久しぶりの遠出に参ってしまい、途中からは彼の腕の中で眠っていた。
隅々まで準備が整えられ、あちこちに花が飾られている。
夕闇が迫っていたため全景はよくわからなかったけれど、きっと翼を広げた形で色は翡翠色かしら・・・明日早く起きて確かめよう。
湖から渡ってくる澄んだ空気が、気持ちを清めてくれるに違いない。
警護の兵士は相変わらず多い。
ただ、今回の指揮はシュラトフ大尉が執っていて、苦手なロストフスキーがいないのにほっとする。
直接何があったわけではないけれど・・・彼とは・・・相容れない。
レオニードはほとんど何も話していないはず。
でも彼が知っている二つだけで警戒する理由には十分。
『皇帝陛下から保護命令を受けた敵国ドイツの女』
『政治犯アレクセイ・ミハイロフを追ってきた女』
陛下のご命令通り監禁し、自由を剥奪。
そのついでに愛人にしている。
主は存外執心しているが、女は表面だけ従っているのではないのか。
いずれ・・・敬愛する我が主に何らかの害をなすだろう女・・・。
そう・・・あなたは正しい・・・ロストフスキー。
その夜、まだ揺られている気分がして食欲もなかった私は早めに床に就いた。
彼も求めてくることはなく寄り添い、本当に久しぶりに穏やかに眠った。
*
翌日庭に出ると、想像していた通りの翡翠色が陽の光に輝いていた。
ドイツともフランスとも違う、綺麗な色の建物がロシアの特色。
長く厳しい冬の圧倒的な白さの中に、色を渇望するのだろう。
私たちは何をするわけでもなく広い庭を散策した。
他愛のない話をしながら漫ろ歩き、私は時折草花や蝶に手を伸ばし、彼はただ見ている。
疲れると東屋にお茶を運ばせた。
ふと見るとうたた寝をしている。
彼は私に警戒していない、ロストフスキーと違って・・・人質を取っているから。
貴重な外での一人の時間を静かに味わった。
もちろん陰から大尉が見張っているのだろうけれど・・・彼なら、まあ、いい。
他のお屋敷みたいにフランス式に整えられた庭園と違う、ここのお庭。
そよぐ風に背の高い草が揺れていて心地よい。
ふと思い出した、フリデリーケのこと。
風のように逝ってしまった。
モーリッツに言い寄られて脅されて、市場を首になって。
それでもイザークのために場末の居酒屋で働いていた。
あんなにか弱そうなのに、芯の強い、そして燃えるような愛を持った人だったのね。
言い寄られて・・・。
私とこの男の関係も同じ。
そう・・・永遠に告げることのない愛のためにフリデリーケが命の灯が消えるまで頑張ったように、私も・・・。
*
あれは・・・フランクフルトの公園に咲いていた花に似ている。
薄紅色がそよ風に揺れて、思い出の世界に誘っているようだ。
まだ眠っている彼からそっと離れ手に取ると、本当にそっくりだった。
お母様・・・首飾りや冠を作ってくださった。
お母様はとても上手。
見よう見まねで作った私のは・・・少し・・・いいえ、だいぶ歪だった。
けれどお母様は・・・喜んでくださった、ありがとうって。
草の匂い、花の匂い、そしてお母様の匂い。
確か・・・こうやって・・・こう?・・・そう、こうよ。
どんどん摘んで、どんどん繋げて・・・長く、長くね。
ほら! できた!
部屋にも飾ろうと更に摘んでいると、いつの間にか目を覚ましていた彼が見ていた。
何だか恥ずかしくなって・・・それに、子どもみたいな真似をするなとまた怒られると思って、急いで冠を外して立ち上がった。
竦む私に近づいてきた。
思わず握りしめた花から緑の匂いが漂ってくる。
ぶたれる前に謝れば少しは加減してくれるかもしれない・・・こんなふうに考えてしまう自分が本当に嫌だ。
「・・・ごめんなさい」
思いがけず彼は冠を取り、再び載せると妙に優しい表情をして言った。
「・・・謝る必要はない・・・似合っている・・・フローラのようだ」
「!」
「どうした?」
「思い出したの。お母様にもそう言われたって。ユリアもいいけれどフローラでもよかったわねって」
「そうか。そうだな、確かに相応しい。さあ戻ろう、だいぶ風が冷えてきた」
*
お茶を頂いて人心地着くと彼はピアノを所望し、私は暗譜している曲を次々と弾き、凡そこの楽器にとって初めての響きを鳴り渡らせた。
思えば・・・一番私のピアノを聴いているのは彼かもしれない。
芸術はわからないって・・・でも、私のは・・・好きなのね・・・どうでもよいことだって言っていたけれど。
お母様もお好きだった。
帰国してからよく弾いて差し上げた。
あれは・・・冬の休暇の少し前・・・曲が終わって、次は何を? と見ると涙ぐんでいらした、悲しい曲ではなかったのに。
驚いて駆け寄ると、ごめんなさい、ごめんなさいって・・・私を許してって。
結局・・・私・・・お母様の力にはなれなかった・・・何を・・・求めていらしたの?
*
三日目の朝、湖の東側まで遠乗りをすると言う。
レオニードは私を前に抱え、シュラトフ大尉とベリャーエフ少尉を従えて駆けた。
なだらかな丘を幾つも越え岸辺に着いた頃には二人とも何かから解き放たれた気持ちになって、笑いながら口づけを交わしていた。
「明日は・・・」
「明日は?」
「私にも馬を頂戴」
「・・・よかろう。それなら西の岬まで行こうか。ついて来られるか?」
「競争しましょう。私が勝ったら・・・」
「勝ったら?」
「音楽会に連れて行って」
「・・・よかろう。では私が・・・」
「止めて。強いほうが望むのはおかしいわ」
あなたの望みはわかっている。
だから聞かない、一言も。
たかだか早駆けに勝ったくらいで、心なんてあげない。
* * * * *
翌朝、厩舎で相棒を選んでいた。
そこへ彼らがやってきて、私の乗馬服姿に目を見張ったようだった。
「ヴェーラのを借りたの、アンナが見つけてくれて」
「そうか。本気ということだな」
「もちろん! 賭けるのに手は抜かない!」
栗毛を選ぶと、それは気性が荒いからこちらの灰色にしてはどうかと勧めてきたけれど、私は意地を通した。
苦笑しながらも鞍をつけさせ、引き出す。
どうせ騎乗すらできずにこの場で落馬の憂き目にあうだろう、そう侮っているのは明らかだった。
「岬へはどう行くの?」
「あの林を抜け、森番小屋を右へ折れてそのまま道なりだ」
「わかった!」
私は差し出された手を取らずにさっと乗馬し、ハンデはもらわないと! と言い残し、駆け出した。
彼らも慌てて追ってくるはず。
その間に少しでも先に進まなければ。
別に・・・音楽会に行きたいわけではない。
ただ、ほんの少しの間だけ自由でいたかった。
自由の気分を味わいたかった。
*
湖畔に出ると、朝日に輝く水面が眩しい。
速度を落とさずに寧ろ駆り立てていくと、一気に蘇った。
列車を追って行ったあの時の緊迫感。
無我夢中で人目も気にせず駆けた、あの時の風。
馬が倒れ地に叩きつけられたあの痛み。
意識を取り戻した時、私が見たのはあなただった。
亜麻色の髪からは水が滴って、瞳は夕日に濃く輝いていた。
思い出した、今、はっきりと。
長い監禁生活と辱めに薄れた、あなたの姿。
あなたのためと言いながら、そのあなたが思い出せなくなっていた。
でもこれで・・・これで、また耐えられる、またしばらくは・・・。
*
遮るもののない岬からの眺め、清々しい風。
気配に振り返ると、少し前からいたのだろう、目線が合った。
彼は私を監禁している敵に過ぎない。
肉体を支配されて、心まで支配されかかっていたことに愕然とした。
馬を寄せて口づけしてきたけれど、それは明け方に交わしたものと大きく異なると、彼も気づいただろう。
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