翡翠の歌

41 ヤルタ




(1)



人殺しの代償のように・・・あの血塗れの夜、流れてしまった、授かったとはっきりと気づく間もなく。

癖に・・・なるって。

それなら、もう・・・産めないの? 誰の・・・子も・・・。


*     *     *     *     *



「ヤルタに?」
「ああ。ヴェーラと静養に行け。暖かいぞ」
「私、大丈夫、ここで。十分暖かいし」
「ここは・・・まあ、気分も変わるから行きなさい」
「でも・・・」
「私と離れたくないわけではあるまい?」
「また・・・返事に困ること、聞かないで」
「あの別荘はな、観て廻るだけでひと月はかかる。幼い頃よく行ったものだ。思い出深いところだが・・・」
「?」
「近々売却する手筈だ」
「? なぜ?」
「・・・身軽になりたいのだ。いずれにせよ変動の時代だからな。とは言え、先祖伝来の品もある。それを仕分け、アルハンゲリスコエに送る手配をヴェーラに任せてある」
「そうなの」
「破産でもするかのようだな。我が家の財産から言えば芥子粒程度の存在だぞ」
「わかっている。ただ・・・思い出深いって・・・」
「・・・そうだ。そうだな」


新興の資本家どもも金絡みの方面には役に立つというものだ。

万が一皇室が亡命なされても私は国に留まり事態を好転させ、再び陛下をお迎えせねばならぬ・・・それが使命だ。
だがお前は・・・陛下にあの財産をお渡ししたら最後・・・戻るまいからな。


*     *     *     *     *



ここはとても過ごしやすい。
今までの人生で経験のない南の暖かさと光に溢れている。
人は皆、海水浴をし温泉に浸かり、社交界の交流に興じている。
ヴェーラは知り合いのパーティーや音楽会に行き、あとは屋敷の美術品や調度品を確認して回って指示を出して、都にいる時よりも忙しそう。
けれど私は飽きもせず本を読んだり外を眺めたりし・・・どこにいても同じ。

まだ体調が戻り切らない。
ふらふらして長く起きていられないし古傷も痛む。

・・・死ぬ気にもならない・・・。

イザーク・・・。
ダーヴィト・・・。

あの時・・・一緒に行きたかった、ほんの一瞬だけ夢を見た、自由になる夢を。





とうとう離婚したらしい、私たちがここにいる間に・・・見せたくなかったのね。

これは侯爵家にとって大変な事態に違いない。
陛下の姪との離婚・・・後ろ盾がなくなった、そんな程度では済まないだろう。

今や宮廷の一大勢力になったあの神父一派が益々勢力を伸ばす。
加えて活動家たちにも狙われて、本当にいくつ命があっても足りない、レオニード、あなたは。
それでも・・・神父たちに阿ないのね。
いろんな信念がこの世にはあるのね。

陛下もこんな忠臣を退けるなんて、この国はどうなってしまうのだろう。
隠し財産が役に立つ時が来てしまうの?





私は・・・これからどうしたらいいのか。

レオニードは・・・とても優しい。
以前の乱暴が嘘のよう。
クラウスがいないから?  もう、この世に・・・。
そう、かも知れない、あれは・・・嫉妬だったのかも・・・行き過ぎた嫉妬・・・。

このまま彼の愛人として生きていく?
生きていくのなら、それしかない。

あの頃の情熱が湧かない・・・どこにも、ない。
ただ、生きている、だけ。
生き永らえているだけ。
私のために用意されたあの屋敷で・・・。


*     *     *     *     *



「言いそびれていたけれど・・・あの、バイオリン・・・渡したわ、アナスタシアに」
「そう・・・ありがとう。面倒なこと、お願いしてしまってごめんなさい」
「いいのよ、私も久しぶりに会えて嬉しかったわ。彼女ね、とても驚いていた、涙ぐんでいたわよ。ありがとうって、大切にするって。それを持ってこれから演奏旅行に出るそうよ」
「よかった。どこまで行くのかしら、フランスとか?」
「それがアメリカにも渡るのですって。あのアナスタシアがねえ」
「まあ、羨ましい」
「ああ、伝言があるの。帰国したらまた一緒にオペラに行きましょうって。この前のトスカが素晴らしかったから今度は同じ劇団の違う出し物でって。それともやっぱりトスカが好みなら他のを探すって」
「?・・・そう、そうね。私は何でも、レオニードが許してくれるのなら・・・。ありがとう、よかった、これであのバイオリンも・・・」
「本当に?  本当によかったの?」
「・・・ええ、本当よ」
「ねえ・・・ここにお兄様はいないのだからいいでしょう?  本心を教えてちょうだい。どうしてあれをアナスタシアに? お兄様はあなたが持っているのをお認めになったのでしょう?」
「・・・」
「信用して」
「・・・だって」
「?」
「だって・・・あなたは・・・彼の妹だから」
「・・・」
「私が彼の・・・彼がどんな男か、あなたの知っている兄とは違うと並べ立てても、結局は血の繋がりを取るでしょう?」
「・・・」


背を向け、外を眺めながら淡々と話し始めた。
彼女にはドイツの空が見えているのだろう、きっと。


「・・・彼はあのバイオリンと一心同体だった、本当に素晴らしい演奏。練習室の外で・・・窓の下で隠れてよく聴いていた。でも一度も一緒に弾いていない。ほら、前にカレンのお屋敷であったコンサートの、あのイザークがね、パートナーで。私はどれほど努力しても敵わなかった」
「あなただって素晴らしい演奏をするじゃない」
「ありがとう・・・でも彼は別格なの。天才なのよ・・・そう、二人とも。まだ学生なのにコンサートマスターをして、イザークのピアノでコンチェルトを。本当は町一番のホールでの演奏会だったのにイザークを妬んだ人たちに邪魔されて公園でやる羽目に。だけどかえってよかった、自然や聴衆と一体となって彼のよさが引き出されていたし、何かが吹っ切れたみたいだった。本当に、あのままドイツに・・・あのままドイツにいれば・・・よかったのに」
「・・・選ばなかったの、ね、そういう生き方を、彼は」
「そう・・・革命って・・・陛下に逆らうなんて・・・フランスだって結局・・・」


火口まで上がってきた溶岩は押しとどめられない、誰にも。
近寄れないほど熱く強烈に輝き、何もかも飲み込んで燃やし葬ってしまう溶岩。
でもやがて冷えて固まったそれが、やっぱり今までと同じ岩だったとしたら?


「その後、別れも言わずにロシアに出発したから、私、列車を馬で追いかけて。窓から見えたのでしょうね、鉄橋で川に飛び込んで戻ってきてくれた。その時、列車に置いてきてしまったの、あのバイオリンを」
「・・・彼は・・・あなたをそんなに・・・」
「ミュンヘンの隠れ家で・・・初めて一緒に演奏した、ベートーベンのロマンスを。でも最後までは弾けなかった、私が泣いてしまったから。そして・・・結局は薬を盛られて、朝、眼が覚めたら誰もいなかった・・・。ううん、恨んでなんかいない。仕方なかったもの。それでしばらくしてから学校の先輩が・・・ああ、あの時、イザークのマネージャーをしていたあの人よ、偶然骨董屋で見つけて。彼に返そうって思って持ってきた」
「それほど・・・数奇な運命であなたの手に入ったのに・・・もう彼がいないからアナスタシアに?」
「・・・レオニード・・・はね・・・たぶん彼なりに・・・彼なりに愛してはくれているけれど・・・私を・・・殺すこともあり得るの」
「何ですって?  なぜお兄様が?」
「詳しくは私からは言えない。でも・・・陛下からの保護命令というのは・・・それも含んでいるの」
「お兄様は・・・あなたを愛しているわ!  殺すなんて!」
「・・・忠誠心のほうが上でしょう?」
「そんな!  そんなこと!」
「いいの、別に生き永らえたいとも思わない。彼のところに行けるし。でも・・・バイオリンは・・・道連れには・・・自由にしてあげないと、バイオリンだけは・・・だから彼女に・・・」


*     *     *     *     *



(2)



静養に行ってから三月、明後日発つとの連絡があった。

良くなったろうか、体調は。

あの時、血塗れになる目に遭わせねば二度目はなかったのだろうか。
医者は癖になる症例が多いと言っていたが・・・。
授かればお前の全てが手に入る。
神の御意思はそうはさせぬというのか。



今、お前の手には銃とナイフがある・・・あの後、渡した・・・九泉を思わせるあの瞳に逆らえなかった・・・血を吸ってますます深みを増した碧色に。

武器をお前に・・・少し前なら考えられぬ、いや、今でも・・・。
あの腕前なら、私を殺し、警護を殺して逃げることも可能だというのに。

私は・・・試すつもりか、自分の運命を。

そうだ・・・お前が賭けたように、私も賭ける。
お前は負けて生き残り、私は勝って生き残る。


*     *     *     *     *



ヤルタへの出発前夜、お前はまだ眠りたくないとバルコニーで月を見ていた。
何を考えている、と問うと、昔のこと、と言う。


「楽しい思い出か?」
「・・・楽しかった、ね。あなたはあるの?」
「それなりに、な」
「作戦がうまくいった、とか?」
「そうだな。それを楽しいと言うかは・・・どうだろうな」
「変なの! そう・・・ドイツでは楽しい時もあった、どれもほんの些細な出来事だけれど。でも話すとあなたが楽しくないから、言わない」


いつか・・・お前の口から奴の名を聞いても思い出を語られても、心騒がぬ日が来るのだろうか。
肉体は死んでも心は・・・遠くシベリアの地から飛来し、かえってお前の心と混ざり合い、もはや分けられなくなってしまったように思える。

苦笑した私の顔に手を伸ばし、そっと触ってきた。
一瞬驚いたが、目を閉じその柔らかい感触を楽しんだ。
そして甲に口づけし抱擁した。



今更ながら・・・細い・・・肩だ。
少し強く掴んだだけで壊れてしまいそうだ。

何故お前を打てたのか踏みつけられたのか。
どうかしていた、あの頃の私は。

この細い体でお前は耐えてきたのだな。
アルフレートの後継者になる為、鍵を守る為、母を守る為・・・そして・・・あの男を守る為。

いつものように背をなでる。
翼はないと・・・安堵するために。





月が美しい。

その優しい光のお陰で二人の関係まで優しいものになれそうだった。
それなのにお前の口からはまったく場違いな言葉が飛び出した。


「最初にね、殺した時は・・・しばらく薬を飲まなければ眠れなかった、手に感触が残っていて・・・失踪に見せかけるために暖炉で焼いた聖書や衣服のにおいがまとわりついているみたいで。お母様を守ったのだからと納得しようとしても。でも・・・今回は何とも思わない。普通に・・・過ごせる。後悔も慄きもない」
「何事も・・・慣れるものだ。生きるための知恵だな」
「あなたも?」
「・・・そうだ、な。殺人は・・・一つの手段に過ぎぬ。役目が果たせぬのならば選ばざるをえん。それを忌避する連中も結局は、手を汚した者たちのお陰を蒙っている有難味に都合よく気づいておらぬだけだ」
「そうね。何かを守るって・・・そういうことなのよね」


そして・・・彼女から求めてきた、不安を除いてほしいとでも言うように腕を回して。
初めてだ、幾度となく抱いてきたが、あいつからなど。

よいのか?  と聞くと、胸に顔を埋めたまま小さく頷いた。

私と生きていく道を選んだのか?

問えば頷いたのかも知れぬ。


「まだ・・・無理だろう?」
「・・・いいの」





やがて眠りについたお前に問いかけた。

もし・・・もしあの夕陽の中、望んでいたら・・・お前は私だけのものになっていたのか?

すぐには従わなくとももっと早く諦め、それが愛だと、それが女の人生だと、そう思って・・・あの男に出会う前ならば・・・あの強い愛を知る前ならば。


*     *     *     *     *



お前の頭の中には今も生きている。
無力な私には追い出しも消し去りもできぬ。

片隅に・・・ほんの片隅でよい、私への愛が生まれ育つ余地は・・・ないのか?  今でも・・・。

私と生きていく道を選ぶか?

この問いかけはできておらぬ、まだ。

いや、よいのだ、確固たる返事はなくとも。

あの屋敷は引き払った。
これからはここで暮らそう、共に。


<第二部終わり>






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