翡翠の歌

38 暗殺未遂




(1)



抱きたいんでしょう? もっと・・・本心は。
気遣っているようだけれど、本心は。

拒絶したらどうなるだろう。
前のように、口を切るほどぶって押さえ込む?
それとも、用無しだって追い出す?

そう、もう私たちを繋ぐものなど何もない。
クラウスもあの子も、鍵も。

軍刀を奪ったら?
重過ぎて私には使えないけれど、彼は撃ち殺す理由が手に入るじゃない?

でもその前に・・・何かの・・・何かの役に立たないかしら、この体。
穢れた、もうどうしようもなく穢れた体だけど、何かの・・・。





「お金を払って」
「?」
「お金よ。ただで抱くなんてお断り」
「何に必要だ? 欲しいものは言えばよいだろう」
「あなたにとってははした金でしょう? それを惜しんで追い出したければそうすればいい。ここに留めているのはあなたよ」
「・・・何に使う? 使いようもあるまい」
「おばあさまに・・・彼のおばあさまにお渡しするの。きっと御不自由されている」
「何を言い出すかと思えば。反逆者の家族に援助だと? 馬鹿な」
「私たちのこの関係以上に馬鹿馬鹿しいことがある? とにかく払って。そしてお渡しして頂戴。いいえ、直にお会いして渡すわ。また騙されるもの」
「いい加減にしろ。さあ・・・」
「嫌よ。帰って。払わないなら嫌よ」
「・・・どこの誰かも分からん女からの施しを侯爵夫人が受けるか? 侮辱としか思われん」
「施しじゃない。償いよ。死なせてしまった」
「侯爵家を潰した奴を孫とも思っておらん」
「そんなはずない。家族よ、例え何があっても愛していないわけがない」
「・・・そうか、家族か・・・」
「?」
「そう言えばお前にもまだ一人、家族がいるな」
「?」
「お前の理屈では、腹違いでも愛しているのだろう?」
「! 卑怯よ、なんて人!」
「今更気づいたわけでもあるまい。よいか、お前の命はお前だけのものではない、今も、だ」
「卑怯者!」
「もう忘れろ!」
「嫌よ!」
「ならばあれを焚き付けにされてもよいのか?」
「酷い人! 脅して抱くなんて最低よ!」


誰かの為に生きるのなら、それでしか生きられぬのなら、鍵のために、陛下のために生きろ。


*     *     *     *     *



(2)



モスクワに滞在し・・・閲兵式を拝観した。

素晴らしかった。
各連隊の一糸乱れぬ行進とその響き。
楽隊の演奏の迫力。

血の匂いのする人たち・・・私と同じ・・・殺すのが役目。



そう・・・人殺しなんて簡単・・・子どもにもできる・・・私もそうだった。
幾ら眉を顰めていても、戦争になれば日常的な行為。
殺さなければ生きられない。

召集されれば職工も農民も商人も教師も音楽家も、あの軍隊に組み込まれて兵士になる。
送られた最前線で消費されていく・・・その屍と引き換えに国と言うものは守られ、そして将校は勲章を得る・・・敵と味方の血を吸って輝く勲章を。

銃後の女だって同じ・・・無垢ではいられない。
父や夫や息子は、誰かの父や夫や息子を殺さなければ帰って来られない。
勝利を祈る・・・それは見知らぬ男たちの死を願うこと、女の涙を求めること。



だけど戦時は皆が同志・・・殺人を非難する人はいない・・・多く殺せば殺すほど英雄になる。
厄介なのは平時。
それも後始末・・・後始末だけ・・・たった一人でも。
なかったことにして、自分に不利益が生じないように。

それが・・・いいえ、それだけが大変なの。
これさえなければ、殺すなんて本当に簡単。

良心?
そうね・・・神罰を恐れた頃もあったけれど・・・もう、ない・・・夢も見ない。

元はと言えば、ピアノだって教養のためにやらされていたわけではない。
銃もナイフも正確な握力が必要なの。

職業軍人は・・・軍隊は・・・迷いがないから、こんなにも美しいのかもしれない。
成分が単一だから・・・雪の結晶のように。



そんなことを思いながら見ていた親衛隊を率いる姿は・・・際立っていた・・・認めたくはないけれど、それは事実。

そして・・・陛下・・・。
幼い頃、一度だけ拝謁した陛下。
広場を埋め尽くす兵士の敬礼を一身に受けられる、この大ロシア帝国の支配者・・・天から授かった・・・。

分かっている、彼の狙いは。
思い出せ、と・・・忘れるな、と・・・陛下への忠誠を。
彼らと一緒に行かせてってお願いした私への・・・戒め。





あの日、気づいたのはいつもの寝室。
目の端に外を眺める彼がいた。

あれは夢だった?
イザークとダーヴィトと。
いいえ、夢じゃない。
でも・・・一瞬で消えてしまった残酷な夢。


「本当に・・・帰したの?」
「・・・他言せぬと約束したからな」
「本当に? 本当なのね?」
「・・・そのうちにまた演奏旅行の記事を見かけるだろう、もう忘れろ。晩餐の時間だ。支度しろ」





それから・・・アルハンゲリスコエ・・・。
素敵だった。
起伏に富んだ広大な地に幾つもの瀟洒な建物、劇場、舞踏場、そして壁を埋め尽くした古今東西の絵画や彫刻、装飾品、工芸品。
侯爵家の力を見せつけられた。

私・・・結局、彼の望んだ通りになった。
単純な男って蔑んでいたけれど、私だってそうじゃないの。





「閲兵式のあとに?」
「そうだ。少し遠いがその価値はあるぞ」
「どんなところなの?」
「我が家の美術品を展示するために数棟の館を建てたのだ。丘陵地の一帯にな・・・少し前までは・・・内外の文化人が集っていた」
「私が・・・行っていいの?」
「まあ、カレンの誘いだからな」
「断れないのね」
「そんなところだ。私は行かぬがシュラトフたちを警護につける」
「そこまでして・・・行きたくない」
「ささやかだが演奏会を開くそうだ。久しぶりにお前と弾きたいらしい」
「え?」
「嫌か?」
「だって・・・いいの? 人前に出して、私を」
「・・・お前も気晴らしになるだろう。それにな、一度立った噂は消すことはできん。妙な動きをすればむしろますます尾ひれがついて広がる。堂々と振舞うのがかえってよいのだ。あくまでもあれは・・・無礼なドイツ人の人違いだ」





「ご紹介するわ、こちらはミハイル・セルゲイビッチ・ユスーポフ。私の弟よ」
「初めてお目にかかります」
「初めまして」
「姉の話以上の、いや、数段上のお美しさですね。何て金髪だ! 侯爵が羨ましい。どこで出会われたのですか? 僕もあやかりたいものだ」
「ミハイル!」
「これは失礼!」


お酒の・・・匂い?


「ごめんなさいね。文学青年気取りで困ったものだわ」
「何か・・・書いていらっしゃるの?」
「ああ、いいえいいえ、違うわ、そんな高尚な話ではないのよ。読み漁っては毎日のように同好の士と飲み明かしているだけ。兄がいるから継ぐ家はなくて。だからずっといい婿入り先を探しているの。ただ本人にその気がなくてね」
「そうなの。いろいろとあるのね」


何だか・・・変な感じ。
飄々として磊落として・・・でも・・・私の顔色を窺うみたいに。





顔色・・・そう、顔色と言えば・・・クラウスの・・・ずっと気にしていた、ずっと窺っていた。
目が合うとドキッとして・・・笑いかけてくれたら本当に身震いするほど嬉しかった。
避けられ始めてからは冷たい無関心な瞳で見返されるのが怖くて・・・でも、それでも目を離せなかった。



最近の彼は・・・私の顔色を窺っているように感じる。

レオニードは・・・多分愛している、私を。
クラウスと同じように想われたいって思っている。

でも、無理。

あなただってアデール様に応えていないでしょう?
あんなに・・・想っておられるのに。

相思相愛って難しいのね。
クラウスとだって・・・どうだったのだろう、本当は。
怖くて恐ろしくて、考えることを避けていたけれど。

愛せたら・・・。

できない。
別に意地を張っているわけではない。
あの想いを、あの、押さえつけても押さえつけても体の奥底から湧き上がってくる想いを知っている以上、無理。

それに・・・愛したことで何を得たの?
得るどころか残ったのは、ぽっかりと空いた穴だけ。
どんなに後悔しても、どんなものでも埋められない、寒くて冷たい穴だけ。

クラウスも、お母様も・・・あの子も。

無力を責める烙印は永遠に消えはしない。
多分こんな私でも、生まれた時は真っ白だった。
それなら・・・消えないのなら・・・濃く澱んだ色で覆い尽くしてしまえばいい・・・無力な私の精一杯の抗い。

愛だの恋だの、そんなものは・・・一時の気の迷い。
なくてもこうして生きていける。
いいえ、ないほうが楽に生きていける。

このまま・・・深刻な世情が伝わってこない世界で・・・生きていけばいい・・・新しい世界に飲み込まれるまで。


*     *     *     *     *



(3)



「奥様!  奥様!  大変でございます、本邸から知らせが! ああ、どう致しましょう! どう致しましょう!」
「どうしたの?  アンナ、落ち着いてお話しなさい」
「旦那様が! 旦那様が賊に襲われたそうにございます!  撃たれて!」
「命は!?  命は!?  レオニードは生きているの!?」
「ええ! ええ! 重傷ですがお命は取り留められたと!」


ああ!

思わず顔を覆ってしまった。

よかった!

今朝ここから陸軍省に向かったばかりなのに。





数日後、シュラトフ大尉が様子を知らせに来た。


「ご安心ください。侯は銃弾を二発受けられましたが、幸い急所は外れておりました。しかし傷口が塞がるのに時間がかかりそうですし、感染症も心配ですので、三月ほどはお屋敷での安静が必要と医者は申しております」
「三月も?」
「勿論どうぞお見舞いにお越しください、取り計らいますので」
「ありがとう、でもいいわ、気づまりだし。それより・・・待ち伏せして・・・狙い撃ちされたの?」
「・・・はい、正門の前で馬車に乗られる寸前でした。申し訳ありません、私が護衛しておりました・・・」
「いえ、逃れられないわ、狙われたら、そんな場所で・・・」


きっと内部の誰かが手引きして・・・誰?


「捜査は進んでいるのですか?  犯人の」
「はい、担当部署が進めていますが、まだ実のある報告はありません」


うやむやにするの、ね・・・この前と同じ。



彼が死んだら・・・どうなるのだろう。

鍵は?
爵位は?
リュドミールが継ぐの?

だめ、あの子では役に立たない。



生きなさい、レオニード!

あなたは私に言った、死ぬことは許さぬ、と。
その言葉をそっくりあなたに返すわ!

死ぬことは許さない!





↑画像をクリック