翡翠の歌

37 再会




(1)



許したわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ・・・漂っているだけ。

だって・・・憎むには・・・疲れ過ぎている・・・体も心も・・・今は・・・。
もう少し・・・もう少しの間・・・気力が戻ってくるまで・・・何も考えずにこのまま・・・。


*     *     *     *     *



早駆けの褒美に音楽会に連れてこられた・・・本当に随分と前の約束だけれど。
あれからあんまりいろんなことがあったから、すっかり忘れていた。

いいって・・・外に、人に会いたくないって言ったのに、褒美だって。
何だか、褒美と言う名の命令だった、いつもの。


カレンのお屋敷でのコンサート。
緊張の一方で、久しぶりの音楽に心は踊っていた。

従妹の主催だからなのかレオニードやヴェーラに好意的な人たちが多いようで、二人も穏やかに寛いでいるみたい。
彼にエスコートされた私には注目が集まり、戸惑ってしまった。
遠縁の娘だって紹介しているけれど、でもみんな知っている、私が彼の愛人だって。


遠縁のって、見え透いた嘘・・・ううん、この社会の符丁なんだ。
まあ、自分の愛人です、なんて言えないものね。



いつだったか、彼は言っていた。

愛人など貴族の嗜み、何人も囲う者もいる。正妻と愛人に優劣などありはしない。ましてユスーポフ侯爵の愛人となれば、そこらの貴族の正妻など霞んでしまう・・・

そんなの、権力を持った正妻の子の論理、妾は妾よ。





やがて主役が登場して、思わず声を上げそうになり慌てて口に手をやった。

イザーク!

オーストリアのピアニストって聞いていたのに、まさか彼だったなんて。


久しぶりの彼のピアノはますます鍛えられ研ぎ澄まされて、私の心に飛び込んできた。
よかった、本当によかった。
いよいよ世界があなたを認めたのね・・・あの貧しいアパートの古いピアノから飛び立ったのね。
そしてそれをこうやって手の届く近さで聴けて嬉しい。
でも、ここであなたと会うわけにはいかない。


「ヴェーラ、少し疲れたの。お部屋に下がってもいいかしら」
「そうね、一緒に行きましょう」


早く立ち去りたかったのに、ヴェーラが友人たちに囲まれてしまった。
その時だった、離れたところから大きな声が。


「ユリウス!  ユリウスじゃないか!  こんなところで!  探したんだよ!」


声の主は笑顔で駆け寄ってきたけれど、私は声も出せず身動きもできなかった。

イザーク!
それに・・・ダーヴィト?


「ユリウス!  ユリウスだろう?」


駄目、その名前で呼ばないで!  ドイツ語を話さないで!  ここで!

周囲が訝しげに私を見ている。


「人違いをなさっていますわ。マフカ! さあ行きましょう!」


引っ張られて連れ出された。
彼らは追いかけようとして、護衛に阻まれてしまったらしい。





部屋でヴェーラが手を握ってくれた、でも震えが止まらない。

どうしたらいいの?  どうしたら?

話を聞きつけてレオニードが来た。
ヴェーラとアンナを下がらせて、久しぶりに詰問してきた。


「彼らとはどういう知り合いだ?」
「・・・あ・・・あの・・・あの・・・」
「答えぬか!」
「音楽学校で一緒だった・・・レーゲンスブルクの・・・」
「二人ともか?」
「そう」
「そこには奴が潜伏していたのだったな」
「それは偶然よ!」
「ドイツ人で、しかも逃亡犯と知り合いだと? スパイか?  それとも活動家か?」
「違う!  絶対に!  クラウスがロシア人だってことも知らない!」
「果たしてそうか?  お前を探していたと言ったそうではないか」
「違う!  彼らは何も知らない!」
「・・・まあ、今のところはそうしておこう。もしスパイや活動家なら人前でお前のドイツ名を叫んだりせぬだろうからな」


胸を撫で下ろした。


「しかしお前の名をあちこちで口にされるのは非常にまずい。私にとってもあの二人にとっても、だ。わかるな?」


頷くしかなかった。


「落ち着いたら二人をここに連れてくる。お前からしっかり釘を刺しておけ」





「よいか? 」


頷いた。


「お前から話せるか?」


もう一度頷いた。


「隣の部屋にいる。くれぐれも馬鹿な真似はするな」


しっかりしなくては。
動揺している場合ではない。
彼らの・・・命がかかっているのだから。





二人は部屋に入るなり駆け寄ってきた。


「ユリウス、本当にユリウスだね!」
「探したんだよ、随分と!」


二人の純粋な気持ちが伝わってきて、それが嬉しくもあり苦しくもあり、私は軽い目眩を起こしてしまった。


「ああ、急にすまない、思わず大きな声を出してしまった。さあ、かけて話そう」


相変わらずダーヴィトは優しい。


「レーゲンスブルクからいなくなってしまっただろう?  どこに行ったのか見当もつかなかったよ。きっとクラウスを追ったのだとは思ったけど」
「そしたらようやく旅券局の伝手でね、君がロシアの査証をとったって聞いたんだ。それでどうにかこうにかこいつの世界ツアーにロシアを組み込んだと言うわけさ」
「君が僕の公演に気づいてくれれば、会場で会えると思ってね」
「モスクワとサンクト・ペテルブルクで駄目だったから諦めていたんだけど、まさか最後のサロンコンサートで会えるなんて」


ああ、本当に嬉しい、こんなに私を思ってくれて。


「さあ、今度は君の話を聞かせてくれ。クラウスには会えたのか?  今どこで暮らしているんだ?」


しくじらないでちゃんと話さないと、隣で聞いているのだから。


「ありがとう、本当に。気にかけてくれて嬉しい。あの・・・あのね、クラウスはもう亡くなったの。シベリアの監獄で、火事で」
「そんな!  そんなことが。信じられない!  彼が!  本当なのか?」
「残念だけど、本当なの」
「あんなに才能豊かな奴だったのに・・・監獄でだって!?」


しばらくの沈黙の後、意を決して口を開いた。


「クラウスはいないけれど・・・私はサンクト・ペテルブルクで暮らしているの」


深く息を吸って、隣に聞こえるよう、はっきりと続けた。


「私、今ここでは"マフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワ"というウクライナ人なの。だから、お願い、ドイツの名前で呼ぶのはやめて。この国ではスパイを意味するから」
「ユリウス?」
「それからクラウスのことも・・・ロシア人である彼がドイツで一緒だったって・・・それも知られてはいけない、絶対に」
「ユリウス、どうしたんだ?  一体何を怖がっているんだ」
「そうだよ。悲しいけどクラウスがいないなら、ここに留まる必要もないだろう?  僕らと一緒にドイツに帰ろう」
「お願い、二つの名前を口にしないって、今、約束して。お願い」


一瞬僅かに開いた扉に目をやったのをダーヴィトは見逃さなかったみたい、そして手の震えも。


「わかった。わかったよ。決して口にしない。誓うよ。イザークもそうだよな?」
「え?  あ?  ああ、もちろん誓うよ、君の嫌がることはしないさ」


安堵の溜め息をつくと、少しは震えが収まってきた。


「ありがとう、本当に。勝手なこと言ってごめんなさい。でも私はここで生きていかなくてはならないから・・・ううん、幸せなの・・・彼がいなくても・・・とても幸せ・・・何不自由ないし、優しい人たちばかりだから」


ダーヴィトが低く囁いた。


「僕らの為だろう?  そんなふうに言うのは」


囁き返す。


「わかってくれたのなら、もう何も言わないで、お願い」


けれど、イザークは夢中だった。


「一緒にドイツに帰ろう。僕たちは明後日ロシアを発つんだ。お姉さんもとても心配しているよ」


ドイツには帰れない・・・人殺しだもの・・・。
でも、彼の純粋さに何も言えなかった。


「・・・ドイツは嫌なのかい? それなら、そうだ、ウィーンに来ないか?  こんな立派なお屋敷とはいかないけど家を用意するよ。そこで自由に暮らせばいい」
「ウィーン?」


思わず聞き返してしまった。


「そうだよ、音楽の都さ、実に素晴らしいんだ。君もきっと気に入るよ」


ああ、本当にそうできたら!

頭の中を様々なことが駆け巡った。
もしあの秘密を決して口外しないと誓えば、もしかしたら許してくれるだろうか。もしかしたら?



僅かに開いていた扉が開け放たれ、あっという間に背後に来て、肩を掴んで引き寄せた。


「伝えたい話は言い終わったようだ。お二方、サロンで皆さんがお待ちかねです。どうぞ」


そう言って部下たちに目配せした。


「待ってください。もう少しユリウスと話をさせてください!」
「やめろ、イザーク!」
「ダーヴィト! 助けないと! ユリウスが! このまま置いていけないよ!」


厚い雲の間から一瞬差し込んだ光のような二人の声・・・それはあっという間に遠ざかっていった。





寒々とした空気が支配していた。
二人の足元で、これまでどうにか保ってきた偽りの土台が崩れ始めたのを感じた。


「お願い・・・ウィーンに行かせて! もうクラウスはいないのよ! あれの在り処も教えたでしょう!」
「・・・」
「あのことは誰にも言わない!  私の口の固さは知っているでしょう?  ウィーンで陛下の亡命を待つわ! 陛下にお許しをもらって頂戴!」
「・・・」
「飽きたでしょう? 充分楽しんだでしょう? 新しい女を囲ってよ! あなただったら喜んで愛人になる人は沢山いる! お願い!  彼らと一緒に行かせて! 解放して! 私の人生を返して!」


彼は無言で私の瞳の奥底を覗き込んだ。
私にはそれが何より怖かった、いつも。
このところずっと見せていなかった態度・・・隠していた態度。
やっぱり・・・あなたと私の関係は何も変わっていないのね。

また罵る?
娼婦って・・・クラウスを想っていると言いながら、彼らも誘惑していたのかって・・・。

ぶたれると思い身構えたけれど、彼はアンナを呼ぶと、"薬"を用意させた。


「自分の自由と二人の命と、どちらが大切なのだ?」


考えるまでもない、そんなこと。
でも、あなたさえ許してくれれば両方とも叶うでしょう?
ああ、なのに・・・怖くて言えなかった。


「お前を手放す気などない」
「どうして? もう十分でしょう? どうして!」
「・・・わかっているはずだ」


わからない、わかりたくもない。

口移しで無理やり薬を流し入れた。
・・・もう、生きて彼らに会うことはない。


*     *     *     *     *



故郷で傷ついた心にあの男への情熱が浸み込んだように、この地で傷つけた心に私への嫌悪と恐れを浸み込ませてしまった。
近頃の霞に覆われた瞳がふと晴れた時、そこにあるのはやはり・・・軽蔑だけだ。
私への愛など生まれ育つはずもない不毛の心に・・・してしまったのだ、私が。

だが・・・。

命を賭して探しに来た・・・敵国に。
それほどの情熱の者たちに引き渡すなど、決してせぬ。


*     *     *     *     *



(2)



「ご無礼は重々承知の上です。お許しください。どうか、どうかもう一度だけ・・・ユリ・・・マフカ嬢に会わせてください。我々はもうロシアを発たなければならないのです。お願いです」


昼間の出来事は詳しく聞いており、指示も受けていた。
ドイツ人二人はそのまま屋敷に泊まる予定となっていたので、晩餐後、私室へ訪ねてきた。
彼らは私が彼の従妹であり、皇室の秘密を共有する間柄、情に絆されるはずもないことを知る由もない。


「本当に何と言うお振る舞いでしょう。もしお招きした外国のお客様でもなければ、このような時刻に私室でお会いするなどあり得ませんわ」
「申し訳ありません。ですが私たちはただ、マフカ嬢のことをもう少し知りたいだけなのです」
「知ってどうなさるの?  あなた方は立派な男性なのに、まるで無責任な噂好きの女性のようですわ」
「心配なのです。彼女とは学生時代の友人で、行方知れずになってからずっと探していたのです」
「彼女はすでに帰られました。お会いになることはできません」
「どうか僕たちが会いたがっていると伝えてください。必ず会ってくれるはずです」
「それはできません、そう申し上げているでしょう?」


*     *     *     *     *



取りつく島もなかった。


「・・・私の知っていることは僅かです。それで満足されると約束されるならお話ししましょう。でも更に求められるなら、このまますぐにお発ちください。まして何か事を起こすとなれば、あなた方の身の安全は保証しかねます。そのような事態は彼女が望んでいないでしょう?」
「・・・ありがとうございます。あなたがご存知のことだけで十分です。どうか教えてください」
「彼女は数年前、この都に一人で訪れました。市街で民衆の暴動に巻き込まれたところを偶然通りがかった侯爵が助け、行くあてもないことから、屋敷で保護しました。今は侯爵の愛人として屋敷を与えられ何不自由ない生活を送っています」
「あの軍人、侯爵の愛人ですって?  ユリウス、いえ、マフカ嬢はクラウスを追ってこの国に来たのですよ?」


あの様子ではユリウスが望んだことでないのは一目瞭然じゃないか。


「あなた方の言う"クラウス"は我が国に対する反逆者と聞いています。その彼を追ってきたとなれば、彼女も同じと見なされるとお分かりになりませんか?  不用意なことは口にされぬようになさいませ」
「・・・」
「ドイツ人の名で呼び、反逆者に関係あるかのように仄めかすことは、全て彼女の脅威に繋がるのですよ。これまでがどうであれ、今はこの地で生きているのです。それを突然やってきたあなた方が乱してよいものではないでしょう?」
「・・・申し訳ありません。感情的になってしまいました。お許しください」


この女主人との会話は明朝にもあの軍人に報告されて、ユリウスの待遇に影響するかもしれないのだ。
救い出せないなら引き下がるしかない。


「ただ・・・ただ、最後にお尋ねしたい。彼女は幸福なのでしょうか?」


ああ、なんて陳腐な問いなのだ。
ユリウスの力になれない自分への免罪符を求めているんだ、僕は。


「ユスーポフ侯爵家は帝国随一の由緒ある大貴族です。その愛人が幸福でないわけがありません。ご安心なされてお帰りください。そして彼女や反逆者についてはどなたにも、そうドイツでもオーストリアでも決して口外なさらぬように。あなた方が彼女の為にできることはそれだけです」





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思い返せばこの"2-37"が最初に作ったお話でした。あんなに彼女を愛した"はず"の二人に、少しは何かしてほしくて(例え結果は"うかつ"でも)。

まだ純粋だった遠い日、「いくら自分のことで忙しくたってバイオリン受け取っていながら忘れるって何?」、「いくら連載期間など大人の事情があるからってまきまきペースで解説役務めて“いい思い出化”して終わりにしないでよ!」と月セに空しく悪態をつき、挙句に押入れに放り込んだのでした。

長い間封印し、子育てが落ち着いた頃、久しぶりに対面したマーガレットコミックスたちにふつふつと甦る未消化な怒り。そして、「この自分の気持ちを納得させるには自分で作るしかない」と始めました。

お話は、丁度半分くらいです。拙い文章を修正・校正しながらのゆっくりupですが、ぜひお付き合いください。