翡翠の歌

27 鍵を守る同志




(1)



敵・・・だったのだ、ずっと。
私を監禁している敵・・・。
それなのに、私ったら。

湖畔への遠乗りから一週間ほどして都に戻ってきた。
あれから明らかに態度が変わって、彼は、またかという顔をしていた。

思えば、そういうことの繰り返しだった。
何かをきっかけに自分を取り戻した私を優しく、でも強引に抱いて再び自分の手の中に収めようとする。
今度も、遅かれ早かれそうなってしまうだろう自分が・・・嫌だ。





また穏やかな一日が終わる。
新聞によれば各地で大規模な要求運動が起き、弾圧が繰り返され、国境の状況も緊迫してきている、ドイツとの関係も。
でもこの部屋にはそれらは一切届かない。

彼も外のことは・・・宮廷や軍のことは・・・殆ど話さない。
表情から見て、多分面白くない話だらけなのだろうけれど・・・親の仇も取れずに。

不思議。
あなたは帝国有数の大貴族。
なのに・・・わざわざ陛下の不興をかう振る舞いをするなんて。
もっと楽で見返りの多い生き方もできるはず。
アデール様の苛立ちもわかる気がする。

それは・・・クラウスも同じなのかもしれない。
幾らでも安楽で穏やかな生き方はあったでしょうに。
お兄様は処刑されクラウスは監獄に、侯爵家は断絶された。



私にはそんな思想なんてない・・・わからない。
虐げられている人たちへの同情や支援は・・・自分が対岸にいて、幸福でなければできないもの。
自分が貧しく苦しければ、それはそれで毎日生きていくのに精一杯で・・・。

そもそも選ぶことなんてできなかった、生き方を、私は。
・・・ただお母様の為に生きてきた、耐えてきた。
そして今はクラウスの為に生きている。
息をしているだけかもしれないけれど。



籠の鳥・・・抱かれるためだけに生かされている・・・飼われている、体を磨かれて綺麗な服を着せられて。

この中で死ぬまで?
彼が飽きるまで?
お父様がお母様を捨てたみたいに、冬空の下に放り出される時が来るのだろうか。
そうしたら・・・そうしたら・・・かえって嬉しい・・・すぐにネヴァ川に飛び込んで穢れた身を清めてシベリアに羽ばたいて行こう。

ああ・・・でも・・・それはありえない、それは。
解放することはない、あの秘密がある限りは。


*     *     *     *     *



(2)



バイオリン・・・クラウスの・・・。
返してなんて口にすると怒って暖炉に放りこみそうだったから、ずっと触れないでいた。
でも・・・レオニードにとって私がまだ価値のあるうちに、どうにかしなくては。
もう二年。
他の女に乗り換えてこの屋敷を訪れなくなってしまったら・・・。

思い切って・・・本当に思い切って、口にした。


「あの・・・バイオリンを・・・返して。もう、いいでしょう?  おとなしく従っていたら返してくれるって、前に・・・」
「・・・奴のことは忘れろと言ったはずだ」
「彼は・・・関係ない。あれは私のもの、私がもらった。返して・・・お願い」
「名器だそうだな、ストラディバリウスか。反逆者の兄から反逆者の弟が受け継いだ」
「・・・楽器に・・・罪なんかない」
「お前には弾けまい?  添い寝でもするのか?  願い下げだな。使い道もない物に拘るな」
「・・・どうか・・・お願い・・・意地悪、しないで」
「・・・まあ、お前次第だ。バイオリンは覚えていたが、肝心な話を忘れているぞ」
「?」
「鍵、だ」
「・・・」
「在り処と引き換えだ。もっとも幾ら名器とは言え、あの鍵を凌ぐ価値があるとは思えんがな」


教えたところでどうということはない、今までだって構わなかった。
でも・・・切り札、だったから、そうしてしまえば命の保証はなくなるから。
取り戻しても殺されてしまったら・・・バイオリンはどうなるの?
クラウスの、クラウスのものなのに。
返すために持ってきたのに。

そうだ・・・確か伯爵が・・・。





「これを・・・」


あの小箱から差し出した。


「何だ?」
「お望みの・・・もの」
「・・・例の在り処か?  ようやく分かったか」
「そう。これで満足でしょう?  あとはスイスに行って引き出せばいい。でも、いい? 私の立ち会いが必要、そういう契約だから。ねえ、約束よ・・・バイオリンを返して」
「・・・なぜスイスに?  アーレンスマイヤ家にあるのではなかったのか?  やはり横取りしようとしたのか?」
「・・・したかったら、とっくの昔にしている! 馬鹿にしないで!」
「・・・悪かった、忠誠心を疑うことを言ってしまったな。許せ」
「・・・いつだったか・・・そう、留学していた時、お父様からスイスに呼び出されたことがあって、一緒に貸金庫に預けた。お父様だってあんな屋敷に置いておけなかったのでしょう」
「私には自分の屋敷のほうが安全だと思えるがな。何があったのだ?」
「・・・狙っている二人に気づいたのではないかしら」
「二人?」
「住み込みの医者と自分の娘」
「それは・・・また随分と身近なところにいたものだな」
「医者はね、私の。イギリスのスパイだったみたい。それからアネロッテ姉様、次女よ。でも、前の奥様が部下と密通してできた子ども。わかるまでは後継者として教育していた」
「そいつらをどうしたのだ?  アルフレートは」
「・・・私が始末した」
「お前が?  命じられたのか?」
「命令、ね。むしろそれならよかったのに・・・いいえ、自分の意志で、よ。医者はね、お母様を狙っていたの、お母様の体をね・・・」


あなたみたいに・・・。


「私、咄嗟に手元にあったペーパーナイフで」
「?」
「? 銃は音がするでしょ?」
「いや・・・ナイフじゃないのか?」
「ナイフは投げる距離がないと・・・」
「お前・・・」
「女の力で一撃で殺すにはね、細身のナイフで体重をかけて・・・延髄を一突きにするの。血も出ないし」
「咄嗟にか・・・」
「人殺しって大抵が咄嗟でしょう?  その為に訓練するのでしょう?」





「・・・わかった・・・で、姉のほうは?」
「それがね、最後まで気づかなかった、フォン・ベーリンガー家の生き残りたちの復讐に気を取られていて。家を出た夜、姉様が告白した、私を仲間にする為に」
「仲間?」
「隠し財産を山分けする仲間よ」
「お前の前に教育を受けて知っていたというわけだな」
「そう、それもその時知ったの、そんな重要なことを。まったくお父様も不用心よ。途中まで教育して放っておくなんて。さっさと始末しておけばよかったのに」
「・・・」
「それでね、前から姉様は計画を実行してきた。まずは自分のお母様、病死に見せかけて。確か十五の頃だって言っていた。私と同じ。人殺しってその頃最初にするものなの?  あなたは?」
「・・・私は・・・軍隊に配属されてからだ。二十の少し前か。まあ立場上、接近戦ではないがな」
「そう・・・そうなの・・・いいわね、血塗れになるのは部下任せで・・・えっと・・・次はお父様」
「確か病死だと」
「毒殺よ。どうしてかお父様に不義の子だってわかってしまったって。誰にも全然似てないもの。あのね、病死に見せかける、そんなの常套手段でしょう? 」
「そうだ・・・な」
「次は・・・私が女だって気づいた小間使い。もちろん私も始末しようとした・・・でも・・・できなかった。折角、血を浴びないために後ろから押さえ込んだのに・・・あんな細い首、簡単だったのに。とても・・・優しい子だったから、やめたの。情けないけど。それでもう全部わかってしまってもいいって思っていたら、うちの猟犬に喰い殺されて・・・私がかき切ろうとしたあの喉笛を。雪が一面真っ赤に染まって、まるで薔薇が咲いたみたいにね。そうなの、レーゲンスブルクは冬薔薇が綺麗なの、街中が真っ赤になって・・・ええっと、そう、それが姉様の仕業だったの。私を守る為に」
「随分と荒っぽいやり方だな。さぞ凄惨な有り様だったろう」
「そうね・・・私から見てもぞくっとさせる魅力のある人で・・・ああいう人と釣り合う男ってあんな小さな街にはいなかった」
「・・・いや・・・そういう意味で言ったのではない・・・」
「そうだ、姉様はね、お母様も殺そうとしたの、図書室に閉じ込めて火を放って。それにマリア・バルバラ姉様も薬に毒を混ぜて。ただ私、本物の鍵はスイスにあるし、もうアーレンスマイヤ家はこのままでいいって思った。病床のマリア姉様の代わりにアネロッテ姉様が取り仕切っても別に構わないじゃない?」
「・・・」
「でも最後の夜、マリア姉様にとどめをさそうとしていたの、私が止めなければ。マリア姉様は好きだったし、やっぱり許せなかった。お母様、そして・・・ゲルトルート。私ですらできなかったのに。あんないい子、孤児で精一杯生きてきたのに。執事は犬に罪はないって。それなら罪があるのはお姉様よね? それでね、私、自分のお茶に毒を、そう、あなたが取り上げてしまったあの毒を入れてね、姉様に飲ませるように仕向けたの。馬鹿よね、毒味のためにって自分から! 死んだわ、散々苦しんでのたうちまわって血を吐いて命乞いをしながらね。私・・・この毒を飲めば同じ有り様で死ぬんだなあって思いながら見ていた」
「・・・」
「褒めて・・・くれないの?」
「何だって?」
「褒めてよ、私を! 私のやったことを!  鍵のためにやった!  殺したかったわけじゃない!  銃もナイフも毒も使い方は十分教わった。でも使いたくなんかなかった。なのに・・・手が勝手に動くの!  こんな、こんなことって・・・!  全部あの鍵のため!  あの財産のため!」


彼は・・・抱き締めた、強く強く。
そして言った、よくやったと・・・さすがアルフレートの娘だと・・・お前は素晴らしいと。
それから・・・いつもに増して優しく抱いた。



敵・・・ではない…かも知れない。
敵・・・と言うのとは違う。
もちろん愛してなんかいない・・・でも・・・。





翌日シュラトフ大尉が届けてくれた。
珍しく沈んだ表情で渡すのをためらっていたので変に思っていると、ご命令ではありましたが奥様には大変申し訳の立たないことを致しました、お許しくださいと円卓に置いた。
嫌な予感がした・・・まさか・・・。

覚悟を決めて開けると・・・弦が切られている。
音は出させないということ。
でも・・・この程度なら・・・仕方がない、本当に子どもっぽいけれど・・・私も嘘をついたし、おあいこね。

それよりも、万が一ふいに訪れた時に手にしているのを見られたら、きっともっと酷いことになる。
だから・・・とても残念だけれど、戸棚にしまって心の目で見ているだけにした。



いつか、いつの日にか自由になったら、張り直してあなたの元に届ける。
そして聴かせてね、何でもいい・・・思いっきり弾いてほしい。

私のせいで手放したバイオリン・・・必ずあなたに届けます。


*     *     *     *     *



(3)



「いい加減、諦めたらどうだ、奴のことは」
「・・・」
「何故わからぬ。よいか? どれほど永らえようと終身刑の囚人が生きて監獄から出ることはない。万にひとつあるとすれば・・・それは奴らの企みが成って帝政が転覆した時だ。が・・・そうなったならばお前は陛下の御為にロシアを出で役目を果たさねばなるまい?」
「・・・」
「その時もしお前が裏切るようであれば・・・私は生かしてはおかぬ」
「・・・」
「いずれにせよ、再び見えるなど決してない」
「・・・生きていてくれれば、いいの、それだけで」
「その為にのみ・・・抱かれているという訳か、今でも」
「・・・約束、でしょう?」


それ以外にどんな理由があるの?


「子が、できたら、どうする?」
「・・・」


大丈夫、毎朝毎晩お祈りしているもの。
神様はそこまで私を罰したりなさらない。
それに・・・罰されるとしたら、あなたが先。


「そうすれば私達は・・・家族になる、どうだ?」
「・・・どうって・・・神様がお認めにならない、そんな・・・」
「お互い、御名を口にできる身上ではあるまい?」
「・・・」
「まあ、よい。また罵られるのは御免だからな。だが・・・いずれ子はできる。それまでに気持ちを・・・覚悟を決めておくがよい」


妾と、妾の子と、脅して囲っている男と・・・それで家族、ですって?
気が振れているんじゃないの?

私に家族は・・・なかった。
お母様はお母様。
お父様は・・・そう呼んでいただけ。

どんなものなのかしら、家族って。
きっと、温かくて心地良いものなのでしょうね。
幸せも辛さも分かち合って支え合って。

ヴェーラの話では、幼い頃クラウスもお母様しかそばにはいなかったって。
でもお父様は手厚く遇していらしたとか。
一緒に過ごす機会は少なくても、家族だったのよ。

もし私の人生でこれから家族を持てたとしても・・・そこにあなたはいない、絶対に。



数日後、レオニードは出発した。
そう長くはかからないと言っていたけれど・・・帰ってきたら音楽会に連れて行くと言っていたけれど・・・。


「奥様?  どうなされました?」
「ごめんなさい、少し横にならせて・・・。気分が悪いの」


すぐに医者が呼ばれ・・・妊娠が告げられた。

ようやく・・・ようやく・・・取り戻したのに・・・私の体は私を裏切った・・・ああ、神様!


*     *     *     *    *



(4)



眼前に突き出された紙片・・・ラテン文字と数字が混ざり合って埋め尽くしている。
望みのものだと、口座の情報だと、これで満足でしょうと。
バイオリンを取り戻し、更には姉を守るため、か。

暗号・・・当然私にも容易に解けると信じている・・・だが、できぬ、士官学校で学んだ程度ではな。
無論、暗号担当者に任せるわけにもいかぬ・・・当面は手元に置いておこう。
お前さえいれば、これを人目に晒す必要はない。



そして・・・殺人の告白・・・いや、報告か。
挙句に、褒めて欲しいときた・・・。

しかし、銃創と裂傷の話は出てこなかった。
つまり・・・まだ告げておらぬ話があるということか。
私自身も所業を詳らかにすれば一晩では語れぬだろうが、お前も・・・底なし沼のような人生を送ってきたのだな、その歳で。


普通は十五で殺すものなの?  あなたは?


何故そのような問いを発するのだ、愛らしい口から。



だが・・・あの男にこれを告白したら・・・どう反応するか、お前、考えたことがあるのか?
私には全てを晒せる、が、奴にはどうだ?
お前が言う愛や恋は、それほどに強いものなのか?

まあ、よい。
あいつはもうこの世にはおらぬ・・・故に返したのだ、お前は知る由もないが。
バイオリンは所詮バイオリンだ、何の助けにもならぬ。
お前を、お前の全てを受け止められるのは、私だけなのだ。

единомышленники

お前と私は・・・。





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