(1)
「まだ・・・申し上げておらぬのか?」
「・・・ええ」
「何故だ? 早く・・・そなたの身に・・・このような災いが降りかかる前に」
「・・・ええ」
「義母上も・・・ご賛同と伺ったが」
「・・・ええ」
「欲しいものは・・・持っていけばよい・・・宝石も調度品も絵画も・・・そう言っているだろう」
「・・・私は乞食ではありませんわ」
「ならば・・・何が望みだ? 身分なら・・・幾度も口にさせるな・・・あの男を伯爵にでも侯爵にでもしていただけばよかろう? それからめでたく再婚だ。そなたは可愛い姪・・・爵位も教義もいかようにも」
「・・・身分などではありません」
「では領地か? どこが欲しいのだ・・・執事に伝えておけ」
「あなた! 私は!」
あの女と・・・別れてください・・・それが条件だと申しましたら?
「・・・そなたは・・・私の子を二度まで葬った。こうして相対するにも・・・限度と言うものがある。そなたがせぬなら私から・・・不敬ではあるが私から申し上げる。治癒したら初仕事にな。恥を晒しに参内しよう」
お二人の事件のあと、私の夫であることを・・・この私の夫であることを・・・宮廷や社交界にあれほど示してもあなたを守れなかった・・・あの神父の機嫌をとっても。
いえ、あれは・・・そう、あなたのためではなかった、本心は。
でもあの時は・・・気づくのが遅過ぎた。
* * * * *
(2)
「でも奥様がいらっしゃるでしょう?」
「・・・お見舞いはなされましたが、すぐにツァールスコエ・セローにお戻りになられました」
「え? レオニードは重傷なのでは?」
「奥様は・・・そういうお方なのです。さあ、ヴェーラ様がお許しなのですからお見舞いに参りましょう」
*
久しぶりの侯爵邸。
あの冬の日、拷問にかけるために連れ出されそのまま別邸に監禁された、そして彼の女に・・・。
暗殺未遂事件の後だけに物々しい警護に囲まれて馬車は進んだ。
見舞いに行く・・・愛人としては当然のこと?
アンナはレオニードが子どもの頃からの使用人で内心アデール様を快く思っていない分、私に肩入れしている。
正式な愛人として堂々とさせたいらしいけれど、私はできる限り人には会いたくない、ヴェーラにも使用人にも警護の兵士にも。
彼らの目の奥から発せられる蔑みと憐れみの光線。
世渡り上手な者ほど巧みに隠されていても私にはわかる。
お母様に注がれた視線と同じ。
そして妾の子にも同じ視線が・・・学校でも社交界でもさんざん。
それがいつの間にか染み込んで私をそんな女にしてしまったのだろうか。
だからクラウスは置いて行ったの? いつだったかレオニードが言っていたように。
愛人に、妾に・・・正式も何もない。
*
それでもヴェーラが優しく、そして礼をもって迎えてくれ、そのお陰か執事や古参の使用人たちも表面上は彼女の基準に従った。
寝室には消毒薬の匂いが立ち込め、数枚開けられたカーテンからは優しい光が差し込み天蓋を照らしている。
レオニード・・・。
いつもの強さは影を潜め、今はただ横たわっていた。
椅子に掛け見つめていると、この三年の記憶が断片的によみがえる。
辛いことばかり。
屈辱的なことばかり。
そう思えば思うほど、レーゲンスブルクの日々が光輝く。
あの時は今ほど辛い時はないと思っていたけれど。
クラウス
ダーヴィト
イザーク
フリデリーケ
ゲルトルート
お母様
マリア・バルバラお姉様
ごめんなさい。
何故私はこんなところにいるのだろう。
*
これほど顔をじっくりと見たことはない・・・今更変なの・・・だって怖いんだもの。
まあ結構男前よね、閲兵式の時も際立っていた。
レオニード・フェリクソヴィッチ・ユスーポフ。
侯爵、それも帝国随一の。
ツァールスコエ・セロー陸軍親衛隊隊長。
身分も権力も財力も・・・生まれながらに与えられた何の不足もない幸せな男。
ああ、奥様からの愛情は不足している。
でも自業自得じゃない?
自分だって持っていないみたいだもの・・・ただの政略結婚、お互い様。
それに女には不自由していないわけだから、綺麗な飾りと思っていればいい。
もっとも・・・綺麗なのは表面だけ、ね。
あの時の形相、忘れられない。
*
そう・・・これは・・・私を愛している男・・・愛していると言う男。
どんな愛? それはどんな愛?
抱くことを愛だって思っていない?
私は愛してなどいないのに押し付けてくる・・・自分の想いを、考えを、やり方を。
でも・・・それは私も同じ? 同じだった?
クラウスに押し付けていた?
それが愛だと信じて。
彼にとっては・・・革命が一番、いいえ、唯一だった。
あの才能ですら捨ててしまったのだから。
なのに夢中で二度も縋りついてきた私。
あんまり哀れで優しくしてくれたのね。
考えてみれば・・・愛しているって言われたこと、なかったもの・・・好きだとも。
おかしい・・・あれほど熱くそう言ってくれたイザークではなく、あの瞳の光にはきっと私への想いがあるって一方的に信じて。
迷惑だった、のかも知れない、あの時の言葉は本心だったのかも。
ああ、それでも・・・それでも追わずにはいられなかった、想わずには。
愛していたの。
いいえ、今でも愛している。
そして・・・私が余計なことをしたばかりに移された監獄で死んでしまった。
*
小さな呻き声と共に目を開けた。
「お前か・・・」
「・・・お見舞いに。ヴェーラが許してくれたから」
「ヴェーラは・・・お前もテロリストに・・・負けず劣らずの・・・危険人物とは・・・思っておらぬようだな」
「・・・」
何故この人は苦しい息の下からでも憎まれ口を叩くのだろう。
子どもっぽい・・・心に突き刺さる彼の言葉、彼の視線。
今日だけは何だかそう思える。
本当の心を覆う鎧・・・たくさん棘のついた。
それはどんな心なの?
「袖机に・・・拳銃がある・・・それを使えば・・・簡単だ・・・。ただし銃声で・・・護衛が駆けつける・・・お前の命も・・・ないがな」
「・・・それでもいいって言ったら?」
「少なくとも・・・お前は愚か者では・・・あるまい・・・これまでの人生に・・・意味がなくなるぞ・・・わかっているはずだ・・・役目を」
そこへ医師と看護婦が入ってきた。
いつもの医師だ・・・看護婦が違う。
私が治療を受けてからしばらく経つから、その間に替わったのだろう。
それにしても何か・・・治療とは別の緊張感があった。
「ではまた夜分にお薬をお持ちします」
医師たちが退出すると私はまた腰掛け、見つめた。
彼は苦笑し、何故そのように見るのか、もう下がって休めと言う。
「好きなようにする。あなたが身動きできないなんて滅多にないのだから」
いいえ・・・これは・・・守れなかった男・・・あの子も両親も、そして今、自分自身も。
事態は悪化する一方。
だけどあなたと私、どちらかだけが生き残るとしたら、それは、あなた。
陛下のために、鍵のために。
だから今度だけは、あなたを守ってあげる。
でもその前にあなたからバイオリンを守る。
額に口づけた、これが最後かもしれないと思いながら。
* * * * *
(3)
よいと言ったのだが・・・本心を見透かされたか・・・ヴェーラめ。
金色の・・・馥郁とした香り・・・あの世では会えぬ天使・・・私の。
私のそばにいるほかはない・・・確信した矢先、ピアニストたちと飛んでいきそうになった。
・・・彼らも捉えられた男たちなのか。
― もしあの夜・・・ドイツを発ったあの夜、彼の申し出を受けていたら私はヴァイスハイト夫人として、どこかであなたに挨拶したかも
薬から目覚め、もう帰国したと知って悄然とし・・・やがて諦めて抱かれながら言った。
幾ら私でも、ドイツ人ピアニストの妻に横恋慕はできまいが。
壊れ物を扱うようにしていると・・・それでは嫌だと・・・忘れさせろと、彼らのことを・・・。
次に見開いた時・・・お前はここにいるのか?
・・・いると・・・信じよう。
* * * * *
(4)
退室した彼女の真意を測りかねていた。
*
「お願いがあるの」
「何かしら? 私にできることは何でもするわ」
「ありがとう・・・あの・・・これを・・・彼女に・・・アナスタシアに渡してほしいの」
「!? これは? 彼の・・・彼のバイオリンじゃないの?」
「そう、彼の。レオニードに返してもらっていたの」
「それをどうして? 何故なの? あなたが持っていれば」
「・・・私・・・バイオリニストではないし・・・折角の名器だから彼女に。世界中の演奏会で活躍してほしい、そのほうが楽器も喜ぶでしょう」
「何を言っているの? あなたの大切なバイオリンでしょう? 弾ける弾けないは関係ないわ」
「いいの。彼はもういないのだし、いつまでも拘っていても、ね」
「・・・忘れ・・・られるの?」
「・・・忘れるわ」
「・・・」
「幸いね、前に劇場で偶然会って、レオニードに許されて少し話をしたことがあったの。だからもし彼女に渡したと知られてしまっても・・・クラウスの話を出さずに辻褄を合わせられる。名器をバイオリニストに渡しただけだって・・・けれど、ね・・・」
そう言いながらケースを開けた。
「!? 」
「ええ。彼女も驚くでしょうね・・・でも他は何ともないから張り直してもらって」
「どう、したの?」
「・・・」
「・・・随分と・・・酷いことをしているのね、お兄様はあなたにずっと・・・」
「・・・仕方・・・ないもの。それより、お願いできる? 彼女にこれを」
「ええ、必ず渡すわ。きっとあなたの気持ちをわかってくれる」
*
最近は穏やかな愛人関係のようだ、それぞれの態度からわかる。
お兄様は満足でしょうけれど、彼女にとっては選択の余地がないだけであって、お兄様を愛しているという訳ではないだろう、今でも。
まして彼を忘れられるの?
いいえ!
どうして忘れようとするの?
*
その後ロストフスキーが指示もないのに訪ねてきた。
そんなことは滅多に、いえ、これまでになかったけれど、珍しく不安を抑え切れないようだった。
「マフカ様は私室にお戻りでしょうか?」
「ええ、気疲れしたらしいわ。あまりいい思い出のない館ですものね」
「・・・」
「大尉・・・疑っているのね、彼女を」
「いえ、そのようなことは」
「大丈夫よ、彼女は・・・愚かじゃないわ」
* * * * *
(5)
主の妹君にそう言われても不安は募るばかりだ。
しかし何より侯が一片の疑いも抱いておられない以上、部下が寝室を見張るなどできぬ相談だ。
マフカ・アレクサンドロヴナ・ロサコワ。
偽名、出身もウクライナではなく敵国ドイツ。
侯爵家と何か深い繋がりがある、皇室とも。
その為保護するようご下命があった。
ただ・・・再びこの都に現れたのは大層な目的があったからではない。
反逆者、亡命中のあの男に恋をして追いかけてきたのだ。
まったくあり得ぬ話だ、候でなくとも呆れ果てる。
あの女について私が知っているのはこれだけだ。
正妻と不仲な状況で手近なところに女を囲う。
まあ貴族、それも候のように大貴族ならば愛人の一人や二人いてもおかしくはない。
多少・・・本気なのが気がかりだが・・・いや・・・多少・・・では、ないか。
あの女・・・どんな抱き方をされても従っていた、男のために。
幾度か監獄に金品を届け、様子を見に行った。
女のお陰で生きながらえていられるとは・・・革命の闘士とやらも落ちたものだ。
危険だ。
得体が知れない。
私にはわかる・・・血の匂いがする。
若く華奢で無分別な行動ばかりしている・・・ただの女・・・ではない。
悶々としながら数部屋離れて控え、何事も見落とすまい、聞き漏らすまいと緊張の糸を張り巡らせた。
*
真夜中とはいえ、ひどい眠気だった。
軍人が情けない・・・。
いや・・・!
盛られたか!?
うすぼんやりと看護婦が助手を連れて寝室に入って行くのが見える。
すぐに助手だけが出てきた。
傍らのシュラトフを揺さぶり起こし、ふらつきながらも何とか寝室に向かい始めた時、銃声が一発、続いて二発。
扉に取り付いたが案の定、鍵がかかっていた。
狙いが定まらず手こずったがようやく破り駆け込んだ。
そこには寝台に向けて銃を構える姿があった・・・この女!
* * * * *
(6)
レオニードは眠っていた・・・薬の力もあるのだろう、穏やかに寝入っていた。
袖机からそっと取り出す。
これは軍用で武骨で重い。
ちゃんと扱えるだろうか?
装填を確かめ、闇に向かって狙いを定めてみた。
このところ右の指が完璧には私の意志に従わない。
これまで負った傷がいよいよ影響を与えているのだろう。
もちろん・・・銃もナイフもどちらの手でも遜色なく扱える、そう訓練してきた。
日常生活はそのためにあった、ピアノも・・・。
それにしても本当に重い。
まず胸に、とどめに二発・・・わかっています、伯爵。
そして少し椅子を動かして座った。
背もたれが大きく、扉から私は見えない。
拳銃は袖机にある
何故そんなことを私に?
彼は信じているのね、私よりも私を。
この銃をレオニードや自身に向けて使うなど決してないと・・・役目を果たすまでは。
彼も幼い頃からそう教育されてきたから・・・。
静かで暗い部屋の中で様々なことを思いながらじっと待った。
*
控えめなノックの後、先ほどの看護婦と助手が入ってきた。
その手には薬剤が載っているらしい布の被ったトレイが。
数歩入ると看護婦は小声で助手に何かを取りに戻るように指示した。
一人になった女は内鍵を締め、足早に寝台に近づき、トレイから取った短剣を振り降ろそうとした。
その瞬間、撃った。
倒れた女に近づき二発。
レオニードは飛び起き、傍らに倒れた看護婦を見、こちらを向いた。
銃口を動かして狙った私は笑っていただろう・・・今まで見せたことなどない心の底から湧き上がる笑い。
昼間思い返していた数年の出来事が一瞬で頭の中一杯になった。
私を苦界に落とした男・・・クラウスを・・・ああ、誰よりクラウスを守れなかった男!
即死なんてさせない、急所のすぐそばを撃ち抜いてやる。
なのに!
なんて落ち着いているの!?
私には撃てないって信じているのね?
そう!
悔しいけれど、そう!
でもね、これから起こること、起こそうとしていること、わかっている?
それでも引きたくなる指を何とか押しとどめ、待った、ロストフスキーたちが駆け込んでくるのを・・・実際には幾秒もかかっていない永遠の時間を・・・。
銃声の直後、彼らが入ってきた。
遅過ぎよ!
早くご主人様を守りなさい!
「撃つな! ロストフスキー! 撃つな!」
叫ぶのがあと半秒遅ければ、そしてロストフスキーが彼の命令に即座に従う人物でなければ・・・私にとってはそれでよかったのだけれど・・・。
ロストフスキーが私を疎んじているのはよくわかっていた。
初めて会った頃から主に何らかの害をなす存在として見なしていた。
命を奪う害も、そして・・・心を乱すという害も。
その上、彼は私とレオニードの・・・体の関係を誰よりもよく知っている。
抵抗する声、拒絶する声、泣き叫ぶ声・・・そして甘く激しい声も全てを聞いているはず。
ここ暫らくはもう諦めてただ抱かれ、ただ従っていた、涙も忘れて。
でもかえってそれは、じっと反撃の機会を窺っているようにも思えたに違いない。
少しよろめきながら近づいてきて手を差し伸べた。
「寄越せ。お前の命はお前だけのものではなかろう?」
まだ熱い銃を受け取ると言った。
「看護婦が暗殺者だ。私が射殺したと警察に報告しろ。すぐに背後関係を洗って取り締まれ」
ロストフスキーたちは慌ただしく指示に従った。
* * * * *
(7)
傷口が開きかけ、別の部屋で手当てを受けていた。
彼女はまだ明け切らぬ暗い外を眺めていた、いつものように。
何を見ているのだ。
何が見えるのだ。
答えは聞かずともわかっている・・・認めたくないだけだ。
ロストフスキーに撃たせようとしたのだな・・・姉を守るために自死ではなく。
日頃からお前を警戒している男だ、外すまい。
奪ってから半年の間、惨いことをした。
お前の中からあの男を消したくて、そうすれば消せると思っていた。
娼婦と罵りロストフスキーが控えている隣で乱暴に抱いた。
その恐怖と屈辱は今更どう償いをしてもお前の心から去りはせぬだろう。
歪んだ形でロストフスキーにすら報復しようとしたお前。
人質がいなくなったのだ、忠誠心が少しでも薄れ、そこに銃があれば、ある限りの弾を撃ち込むのだろう、今夜の分まで。
私が奴の命を握っていたのではなく、まったくの逆だったのだ。
結局あの男はかえってお前の心の更に奥深くに沈み込み、もはや口にされなくなった。
しかし私は知っている。
時々視線が彷徨い肩越しに凝視しているのは、あいつから耐える力を得ているのだと・・・今でも。
あのような瞳で見られるくらいなら、目を瞑るななどと、逸らすななどと命じねばよかった・・・。
「助かった。感謝している」
「・・・」
「だが怪しいのならなぜ言わなかった」
「・・・微かな疑いだけでは殺せないでしょう?」
「・・・お前一人で始末できると思ったのか?」
「できないと思う?」
強いのか弱いのか、賢いのか愚かなのか、お前は捉えどころがない。
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