翡翠の歌

40 連鎖




(1)



だいぶ元気になった、一人で歩けるし普通の食事もできる・・・それに・・・。


ああ・・・生き返る・・・お前は・・・温かい・・・


娼婦だもの、何だってできる、ご主人様の満足のためになら。

落ちるところまで落ちてしまった。
でもいい、もう、どうでも・・・どうなっても。

だって・・・。

クラウスは知らないうちに死んでしまった・・・命をかけて求めてきた星が消えた、跡形もなく。
アーレンスマイヤ家はお姉様がうまくやっていらっしゃる。
イザークやダーヴィトとは二度と会えないけれど、きっと彼らは彼らで自分の人生を送っている、陽のあたる人生を。
伯爵すら会いに来てくれない・・・任務が忙しいのね、それに・・・やっぱり私に呆れたのだ。

鍵の在り処はもう教えてある。
バイオリンも救い出した。

誰も私を必要としていない・・・。
だから・・・あとは死ぬだけ。
あんなこと言っていたけれど、考えてみれば・・・私が自殺して・・・その報復にわざわざお姉様をどうこうするなんて無益な手間をかけない。

おかしい・・・そう思いながら、でもぐずぐずと生きている、誰も必要としない生を・・・。

ああ・・・ただ一人、この人だけは私が死ねば悲しむ、きっと。
例え次の"都合のいい女"を手に入れるまでだとしても。
もちろん・・・彼の権力を使えばそんなの、すぐ。
それでも私に拘るのは面倒なだけなのかも・・・新しい女を手懐けている時間がもったいないだけかも。



私に残されたものは・・・浸み込んだ忠誠心・・・忘れた頃に頭をもたげてくる。
鍵・・・そう・・・彼に任せず、やり遂げたい気持ちもある。

そして、この・・・腐れ縁・・・。





そんなことを考えながら思わず呟いてしまった、"でも・・・死ななくてよかった・・・"。


「本当にそう思うか?」
「・・・それは・・・そうでしょう?  面倒はご免よ。ああ、この際だから聞いておく。ねえ、今あなたが死んだら誰が侯爵家を継ぐの?  子ども・・・いないのでしょう? リュドミール? 」
「・・・いや、違う」
「ああ、やっぱりそうなんだ。仲のよい兄弟でも身分が違うわけ。いいわね、正妻の子は。自分の手柄でもないのに」
「・・・身分制度が国を支えているのだ、それについて議論する気はないぞ」
「ならせいぜい死なないように気をつけて。リュドミールだとしても心もとないのに、初対面の跡継ぎに鍵のこと、一から説明する気なんてないから」
「・・・わかっている、心配するな。陛下からは我が家の跡継ぎについては特段のご配慮をいただいている」
「そうなの・・・まあ、そうよね、ご自分たちの財産を預かっているのですもの。なくなってしまったら困る。でも・・・私には何のご配慮もないのね」
「?」
「だって・・・あなたは・・・侯爵家はこれからの地位も保証してもらっているじゃない。本来なら姪を差し置いての跡継ぎなんて考えられないでしょう? なのに・・・私は得るものもないし、あの家の将来を守ってもらっているわけでもない、お姉様は何も知らないのですもの。それどころか、もし表沙汰になればアーレンスマイヤ家はおしまい」
「・・・ビスマルク政権やバイエルン州に関しての動きを支援していたのだ。それが取引だ、お前の曽祖父の代からな。もはや対ドイツ政策は別の人物に任されているが。まあ確かに今やあの家やお前には何の見返りもないな」
「横取り・・・されるかもって思わないの?」
「そのために我々を監視役につけている。が・・・少なくともお前に関しては案じてはおらぬ。陛下への忠誠心は格段だろう・・・教育とはそのようなものだ」
「・・・あなただって同じなのに・・・ねえ・・・もしかしたら陛下は・・・その"跡継ぎ"に早く継がせたいんじゃないの? だから・・・」
「・・・そのようなお考えはない・・・決してな。これは・・・あくまで周りにいる者の思惑だ」
「それに惑わされる・・・つまりはそうお認めになっているのと同じだって思わない?」
「・・・そう言うな」


*     *     *     *     *



そろそろふた月になる・・・お見舞いに来ただけなのに。
出仕はしてなくても書斎で仕事しているのだから、もう大丈夫でしょうに。
帰るって言っても、自分がまだ行けないからここにいろって。
でもいつアデール様が戻られるかわからないし・・・私、絶対会いたくない。

別邸とそう変わりない・・・平和で退屈な生活。
以前みたいに争ったり声を荒らげたりすることもなく穏やかに過ごしているから、使用人たちも表面上は空気のように受け入れている。
さすがにここでは"奥様"ではないけれど。

読書したりピアノを弾いたり、庭を歩いたり温室を覗いたり・・・。
食事もサロンで寛ぐのも一緒・・・夜も・・・妻の寝室の下の部屋で・・・。
嫌だ・・・何だか普通の夫婦みたい・・・。
彼が聖夜にかけた願い・・・二人一緒の人生・・・。

いつの間にか、そうなっている・・・自分の手を汚さず都合よくクラウスも死んでしまって・・・。
いい年をして人形遊びって見下していた・・・でもあなたこそ私という人形で夫婦ごっこをしているじゃない。



なぜ神様は彼の願いだけを叶えるの?
伯爵は運が強いって言っていたけれど、彼のほうがその上を行っている。

彼だって人殺し・・・軍人だもの。
汚らわしいのも同じ。

なのに・・・唯一の光は消えて・・・私は正気のまま・・・。

妾の子だから?
ここは正教会の地だから?

ああ、本当に嫌だ・・・。





薔薇の季節。
中庭にも温室にもよく手入れされた花が溢れている。
それを観ながら、香りを楽しみながらのただのそぞろ歩きなのに・・・。


「申し訳ないわ、軍人のあなたにこんなことを・・・。レオニードに言っているのだけれど聞いてくれなくて。ごめんなさい」
「お気になさらずに。お守りするのは当然の役目です」
「私は大丈夫。狙われているのはレオニードでしょう?」
「御命令を受けての侯の御指示ですので」
「・・・妙だとは・・・思わない? 私にそんな御命令なんて」
「考える立場ではございませんので」
「・・・ふうん・・・でもいいわ、こうして庭に出られるのも今のうちだもの。あそこに戻ればずっと部屋の中。信じられる? 何年もあのお屋敷にいるのに中庭に出たのは一度だけ。それほど私、逃げ出しそうに見える?」
「・・・」
「ああ、そうだ! そう! 散々あなたに捕まったものね、信じられないわよね! あら!」


これまで入ったことのなかった一角・・・いいえ、ここはあの離れのあった場所。
殺人を覆い隠すみたいに新しく東屋が建てられ庭園になっている。

跡形もない・・・。

気にするような人でもないのに。
そう・・・精一杯の・・・彼なりの思いやりなのかも。

血の代わりに真っ赤な薔薇が咲き乱れている。
思わず見入っていると声をかけてきた。


「お好きなのでしたら、お部屋に飾るよう手配いたしましょうか?」
「え? いいえ、いいの。好きというわけではないの」
「?」
「故郷ではね、よく似た真っ赤な薔薇が冬に咲くの。町中に溢れて。それを思い出しただけなの」
「でしたら尚更・・・」
「・・・私・・・血の匂いがするって言われたの、彼に。あの・・・彼によ。二人で薔薇の咲く街を歩いていたら突然」
「血の・・・ですか。それは・・・女性に用いる言葉ではありませんね」
「まったくね。でも・・・当たっている。私・・・人殺しだし」
「閣下をお守りするための見事なお働きでした」
「そう・・・あれはね・・・。でも・・・他にも殺しているのよ、子どもの頃・・・二人も」
「?」
「嫌ね・・・本気にしないで。嘘よ! 嘘!」
「マフカ様・・・」
「・・・その・・・意味、知っている? こんな名前をつけるなんて大概な親よね」
「・・・」
「本当の名前、ね。"光り輝く者"っていう意味なの」
「まさにお似合いですね」
「お母様がつけてくれたの。きっとこの髪から思いついたのね。生まれたのは冬の終わりなのに」
「奥様の・・・人生を想われてのことでございましょう」
「散々な人生・・・名前負けしている、嫌な名前だけれど今のほうが似合っている。あら、おしゃべりし過ぎね。あなた、聴き上手だから! もう散歩はいいわ、戻りましょうか」


彼といると多弁になる・・・沈黙が怖いから・・・軽蔑のため息が聞こえてきそうで。
帝国軍人が何の因果で娼婦の警護なんてって。
余計な話はしないように気をつけてはいるけれど。


*     *     *     *     *



二度目のお見舞いに帰省したリュドミールと久しぶりに会った。
最初は少し気まずかったけれど、じきに気持ちも解れて、前のように芝生に寝転がって空を見上げたり塔から都を眺めたり・・・。


「幾つになったの?」
「やっと十五になりました。来年は士官学校へ進みます」


十五・・・。
この都にやってきた年・・・そして、初めて人を殺した年。

士官学校・・・最後の仕上げ・・・そこを終えたら軍隊へ。
使命の為に殺すのが役目。
汚れないままの手などこの世にないのね。



あなたは自分の生まれを気にしないの?

あの口ぶりではきっと正妻の子ではない・・・それとも気づいていない?
いいえ、そういう類のことは隠していても気づくもの。

人の口に戸は立てられない・・・わざと吹き込む人だっているし。

この社会では日陰でしか生きていけないのに、そうやって忠誠を誓って汚れていく。
それで・・・あなたは、いいの?



口に出せない問いが頭を駆け巡るのに疲れて、いつの間にか寄り添って眠ってしまった。
温室の花々の香りが癒してくれるだろう。


*     *     *     *     *



(2)



リュドミールがモスクワに戻り、彼も明日から出仕するという。


「それなら私も帰る・・・あちらのほうが落ち着くから・・・」


囚われに戻る・・・もうクラウスはいないのに・・・どうして・・・。
心に染みこんだ陛下の御為?
そうね・・・そうよ・・・どうしても・・・逃れられない。

でも・・・それだけではないって・・・ことも・・・私・・・知っている。





馬車の中、シュラトフ大尉と話した。
彼とは・・・話しやすい。
それが表面だけだとしても。


「ね、どうしてレオニードの側近に?」
「父が先代のユスーポフ侯爵にお仕えしましたので、私からお願いしたのです」
「お父様が・・・今は?」
「特務機関におります」
「そう・・・私のこと・・・いろいろ調べているの?  何かわかった? 誰のために動いているの?  レオニードの足を掬うため?」
「とんでもございません。調べるなど・・・私は致しておりません」
「あなたはね。お父様よ、聞いたのは」
「祖父も父も侯爵家に服仕しておりますのでご安心ください」
「正直には言えないわよね。ごめんなさい、意地悪だった」
「奥様・・・」
「レオニードのこと、好き?」
「・・・」
「好きじゃないのに仕えているの?」
「それは・・・ご尊敬申し上げております、侯爵閣下は陛下への忠誠心がとりわけ篤く、軍事的な采配も群を抜いて優れておられます」
「ふうん・・・模範的な返事ね・・・あ、ロストフスキーってどういう人?」
「彼は下級役人の子で、苦学して下士官になったと」
「貧しい生まれなのに陛下に仕えるの? 普通は反体制側じゃないの?」
「父もよく調べましたので、彼に関しては問題ありません」
「下士官からどうしてレオニードの側近に?」
「遠征時に侯に進言し、それがお気に入られたと聞いております」
「まあ、上官に意見するなんて命知らず」
「侯でなければ恐らく・・・」
「あなたたち、みんな変な人!」
「奥様・・・」
「皇帝陛下にお仕えしているのは・・・ どうして?」
「それは・・・私たち皆の命も同然ですから」
「陛下はあなたたちを・・・命をかけているのを知らないのに?」
「それは・・・当然でございましょう、陛下は天から専制君主であられることを授かったのですから」


不意に彼に近づき、囁いた。


「短剣を貸して!」
「?」
「早く!  レオニードを助けた私を疑うの?  ありがとう!  外はあなたがやって。アンナ!  じっと静かにしているのよ!」


馬車が止まった・・・銃声と落馬する音が。
大尉は銃を、私は短剣を構えた。
乱暴に扉が開き、銃口を向けてきた御者を撃って大尉は外へ出た。
私は・・・座席の下から飛び出した男の喉笛をかき切った・・・狭い車内なら女のほうが有利なの知らないの?
血が・・・生温かい液体が勢いよく私を濡らした。

呆然としているアンナにそこにいるよう言って出た。
大尉と撃ち合っていた男が私に向かって叫んだ、イリヤの仇・・・と。
屈みながら投げた短剣は胸を貫き、大尉は銃弾を浴びせた。





大尉は駆け寄り声をかけてきたけれど、私は御者の銃の残弾数を確かめながら落馬した二人の護衛を見ていた。
一人の下には血だまりができていた・・・もう一人は・・・立ち上がりながら銃を向けた。
私達の銃口が火を吹いたのは同時だっただろう。





暗い中ペトレンコ少尉の止血をし、アンナに傷口を押さえているよう指示してから、大尉の手当てにかかった。


「どうしてお分かりに?」
「少し・・・馬車の音が違ったでしょう?」
「・・・伍長は?」
「イリヤの仇って言った。あの看護婦のことよ、きっと。私が殺したって知っているのは、あなたとロストフスキーと伍長だけ。彼が伝えなければわからないでしょう?  ああ、気持ち悪い!  血が目に入って・・・まともに浴びちゃった」
「私がお拭き致しますのでしばらくじっと・・・」


彼は・・・髪から滴り落ちてくる血を拭った。
そして私の瞳を見つめていると思っていたら・・・口づけ・・・遠慮がちな優しいビロードみたいな感触。
アンナには・・・気づかれなかったと思うけれど・・・。

駆け付けた憲兵隊に本邸に連絡を取るよう大尉が指示を出しているところへ、ロストフスキーたちがやってきた。





どこまで入り込んでいるのか・・・反逆者は。
レオニードだって身元調査は十分にしているだろうに、次から次へと・・・。
もっとも、革命家たちの中に政府側のスパイも・・・たくさん入り込んでいる、きっと。

彼らには彼らの正義があるのだろう。
その彼らを弾圧しているレオニードを殺そうとした。
仲間を殺した私を狙って、でも返り討ちにあって・・・。

仇の関係がどんどん増えていく。





血塗れの私にレーナは卒倒しそうなほど驚いたけれど、自分も血に染まりながら洗い流してくれた。
その間にレオニードが訪れて・・・抱き締めて口づけを、長い優しい口づけを交わした。


「怪我人がお見舞いに来るなんておかしい」
「本当にすまぬ・・・」
「いいの・・・私は・・・無事だったのですもの。でも・・・少尉は?」
「・・・助からなかった」
「そう・・・残念だわ・・・仲間に裏切られたのですもの、無念だったでしょう。彼らは・・・ボリシェヴィキ?」
「いや・・・立憲民主党の奴らだ。あのボリシェヴィキより急進的でな」
「敵が・・・多いのね、本当に、あなた。味方は・・・いるの?」
「・・・意地の悪い問いだな」
「シュラトフ大尉は?」
「あれは・・・信用できる。代々諜報関係の職に就いている家系でな、我が家とも縁が深い」
「でも、あなたが一番信用しているのは・・・ロストフスキーなのでしょう?」
「・・・そうだな・・・あいつとは・・・」
「一心同体?」
「そんなところだ」。
「私は?  信用している?」
「・・・勿論だ」
「それなら・・・銃とナイフを頂戴、小さいものでいいから」
「・・・わかった、用意しよう」


彼らの殺意が、私の生への執着に火をつけた。





しばらくして、傷の癒えたシュラトフ大尉は側近を辞し内務省に移ったと聞いた。


*     *     *     *     *



(3)



このまま、ここにいればよい・・・

そう言いかけて思い留まった。
離婚してからだ、あと少し経てばそれも解決する。
いよいよご下命があったという。
十年以上も夫婦であったが実に不愉快な結婚だった。
それでも・・・あいつと出会っていなければ、何とか体裁を繕おうと努力したかもしれぬが、な。

それにしても、何も日が暮れてから出ることもないのだ。
夕刻から勤務についたシュラトフに警護をさせたかったらしい。
早い時間ではロストフスキーになったからな。

お互いに苦手なのだ。
ロストフスキーは私に影響を与えている彼女にある種の嫉妬をしているのだろう。
・・・まあ、奴は誰にとっても苦手か・・・それに・・・。

報告書に目を通しているところへ執事が血相を変えて飛び込んできた、納屋で御者が死んでいるのを女中が見つけたと言う。
帰り支度をしていたロストフスキーを呼び戻し、直ちに追いかけるよう指示した、もしかしたら私は叫んでいたかもしれぬ。





ひどく長く・・・感じた、実際には二時間も経っていなかったのだが。

・・・無事だった、怪我一つしておらぬ・・・奇跡だ。

負傷したシュラトフが謝罪を繰り返すのを押し留め報告させた。


「あと少しで別邸というところで奥様が短剣を貸すよう言われたのです。そして外の賊は任せると」
「あれは気づいていたというのか?」
「はい、轍の音が・・・違ったと」
「ここに来る時と違ったということか」
「すぐに馬車が止まり銃声が二発し落馬する物音がしました。扉を開けた賊を射殺し、外へ出て撃ち合いになりました。しかし奥様を・・・私はお守りできませんでした。奥様はご自分でご自分を守られました。座席の下に潜んでいた賊の喉笛を切り、もう一人に短剣を投げつけて始末されました。そして倒れている二人の護衛の内レザノフ伍長を疑い、身を起こし銃を構える前に賊の銃で撃ち殺されました。賊が奥様をあの看護婦の仇と叫んだそうで、その事実を知っているのは私とロストフスキー以外では伍長しかいないと」
「そうか・・・」
「侯爵閣下、面目次第もございません、私は・・・任務を全うできませんでした。ご処分を」
「・・・よい。私が甘かったのだ。対策は考える」
「しかし!」
「これ以上言うな。それより早く傷を治せ」





別邸に向かいながら考えた。
あの・・・ドイツでの二件の殺人を告白した時、あいつは手が動くと言った、どうしようもなく。
こういう意味なのだろう。
特に何かを考えているというわけではなく、動物のごとく本能的に感じ取り反応する。

戦場では・・・私もそうだ、故に氷の刃とも恐れられている。
だがもはや軍務に着きながら出来切れる状況ではない。

致し方ない、チトフを呼ぼう。
奴ならば本邸も別邸も守れるだろう。

引き合わせるのは避けたいところだったが、こうまで切迫してくるとそうも言っておられまい。





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