翡翠の歌

29 毋我




(1)



医者に言われたらしい、陽の光にあたらないとって。
盛んに勧めてくる。


「奥様。そんなに塞ぎこまれていては、お子様によくございませんよ。離れの先の温室に参りましょう。旦那様からお許しをいただいておりますから」
「・・・いい。動きたくない」
「今日は明るくて気持ちようございますよ。先ほど見てまいりましたら、白くて小さな花が沢山咲いておりました」
「興味ない。大丈夫。勝手に宿ったのだから勝手に生まれてくる。私の意思なんて関係ない、レオニードもこの子も。さすが親子」
「奥様、旦那様は・・・旦那様は本当に奥様を大切に想っておられるのですよ」
「やめて。あの人が私にしてきたこと、忘れたの? あなただって共犯じゃない」
「・・・お気づきになられたのです、ご自分のお心に・・・ですから」
「もうやめて。あなたと話していると、それが疲れるの。下がって。少し横になるから」
「では、お召替えを」
「自分でできる。早く出て行って」





本当にうるさい。
アンナったら大喜びで、祭壇を作ってお祈りをしている、昔から伝わるんだって。
あの薬草も効果てきめんだったというわけね。
すっかり張り切って、また別の薬草に変えたみたい。

でも、飲めって言われても無理。
妊娠ってこんなに辛いことだったなんて。
吐き気が止まらないもの、食べ物の匂いだけで、いいえ、見ただけでもう駄目。
吐くものもないのに胃液まで吐くなんて・・・喉が痛い、この苦しさ、あの頃以来。



喉を潰すために吸ったあの、水銀。
伯爵に教えてもらっていた。

飲ませるより吸わせるほうが効果は数倍。
記憶障害や情緒不安定になるし内臓も壊すし、挙句に狂ったり死んだり。
精神病院に閉じ込めたり病気に見せかけて殺すにはちょうどいいって・・・砒素やアルカノイドよりも。
濃いと喉が痛くなって気づかれるから、少しずつ少しずつ。

他に方法がなかった。
何より、男でいるために・・・あの頃は伯爵とも連絡が取れなくて。



涙はもう涸れてしまった。
いいえ、忘れてしまった、流し方を。

きっと心の奥底には溢れている。
せめて少しでも・・・この辛さを、苦しさを洗い流せたらいいのに。


*     *     *     *     *



(2)



「!」
「奥様、まだお痛みに?」
「いえ、大丈夫、うっかり力を入れてしまっただけ」
「お食事はこちらに運ばせますので」
「大丈夫よ、大丈夫。ゆっくり行けば」


階段・・・。

昨日とても眠くて、ぼんやりと降りていたら、あと一段あるのに気づかなくて。

そうだ、あそこで踏み外せば?・・・もっと上から。
でも死んではだめ・・・大怪我も・・・相手ができなくなってしまうから。
手も、ね・・・折ったりしたら弾けなくなる。

難しいけれど、やってみよう、明日。

ううん。
まだ早い。
わざとだってわかってしまう。
やっぱり子どもができて嬉しいって、そう思わせておいて、それから。





なのに、そんなささいな出来事を早速報告したらしくて、手を回されてしまった。
まさか計画を気づかれたわけではないでしょうけれど。


「ここで?」
「はい、旦那様のお指図ですので」
「でも・・・歩いたほうがいいって」
「そう、でございますね。ただ、ご無理はいけませんから。ピアノも当分は居間のほうでお弾きください」
「無理じゃない、大丈夫、ずっとこの部屋なんて嫌よ。どうして急に」
「しばらくは我慢なさってください。旦那様はご心配なのですよ」
「心配って」
「階段です」
「・・・大丈夫、気をつけるから。あなたのお勧めの温室にも行きたいし」
「旦那様がいらした時にご一緒に」
「・・・」


どうしよう・・・何か他の方法を・・・。





「どうだ、具合は」
「・・・」
「アンナにな、任せておけばよい。三人の子持ちだからな」
「・・・」
「・・・まだ・・・覚悟ができんのか・・・どうした? 横になっていろ」


点けるのは、あなた。
私は差し出すだけ・・・導火線を。


「・・・ずっと・・・思っていたけれど・・・あなたって・・・本当に最低の男・・・。軍人としては優秀でも、相手が女だとまるで無能じゃない。宝石を山と積んで打つしか手がないんだから。挙句に孕ませて、さあ産めだなんて。料理を注文するみたいに」
「・・・」
「女を馬鹿にしていたって・・・あなたはその女の体がなければ生きていけない。宮廷も夫婦もうまくいかなくて、娼婦で憂さを晴らして、やっと平然としていられる。なのに、手近なところで安く済ませるなんて、大貴族にしてはけち臭い」
「・・・」
「愛しているなんて笑わせる。こんな滑稽な喜劇、観たことない。自分の都合だけで好きに扱ってきておいて・・・悲恋オペラの科白をとってつけたように言わないで」
「・・・」
「クラウスはね・・・私を愛していたから抱かなかったの。去っていく自分には責任が持てないから。男の欲望をまるで抑えられないあなたなんかとは違う」
「・・・」
「あの屋敷で引き合わせた時、クラウスが私に何て囁いたか教えてあげる」


クラウス、お願い、力を貸して・・・もう一度、あなたに会いたい!


「俺を忘れて・・・俺を忘れて故郷で・・・幸せになれ、よ。あなたには百年経っても口にできない言葉・・・大切な言葉、私の心の中に・・・ここに、ある。マリアと違ってさすがのあなたも取り上げなんかできない、大切な宝物。いい? こういうものはね、どこの宝飾店にも売っていないの。いくらお金を積んでも。ああ、やっぱりあなたにはわからないでしょうね、こんな言葉、こんな気持ち・・・捧げられたこと、ないんだから!」
「・・・」
「愛はね・・・押し付けるんじゃない。相手を・・・相手を大切に・・・何よりも大切に・・・尊重するの。クラウスこそ本当の意味での貴族、獄に繋がれていても。あなたみたいに偶然跡継ぎに生まれた下衆とは違うの! ああ、嫌な男! 大人しく従っているからって気があるなんて勘違いしないで! 我慢しているの、あなたに! あなたの何もかもに! 全部クラウスの為! こうして顔を見るだけで虫酸が走るのに! 大っ嫌い! 大っ嫌い! ああ! ずっと言いなりになってきたのに、こんな仕打ちって! どこまで私の人生を台無しにすればいいの? あなたの子どもだって、どうしようもない屑に決まっている!」


早く、早く打ちなさいよ・・・私は見事にここに、冷たい床に倒れてあげる。
そうして軍靴で踏みつければいい、このお腹を、思いっきり・・・あの日、手にしたように。
その薄っぺらな仮面を外して、さっさと本性を現しなさい。


「・・・悪かったと思っている・・・返す言葉もない。何を口にしても所詮は全て・・・言い訳になる」
「・・・」
「だが・・・奴とは・・・比べようもないかも知れんが・・・私は・・・お前を愛している。愛してきた、初めて会った時から。そして、授かった子も」
「・・・」
「私を憎むのも蔑むのもよい。が・・・この子には・・・この世の光を見せてやってほしい。お前の子なのだ・・・間違いなく素晴らしい子だ」
「・・・」





失敗した。

何だか、妙に平然としていた・・・聞こえていないみたいで、キャンキャン吠える子犬を眺めているようだった。

お腹を踏みつけるって思ったのに・・・それで終わりにできるって・・・。
まるで平静だった・・・そしてまた・・・悍ましいあの言葉を。
そうね・・・私の話なんて、まともに聞いたためし、ないもの。





どうしよう。

あんなこと言ったから? 
もちろん本心だけれど・・・何とか隠してきたのに。

どうしよう。

謝って・・・済むの?

もう半月も来ない。
いいえ、来なくたっていい。
心配はそんなことじゃない。

もしかしたら・・・クラウスを・・・。

なんて馬鹿なの、私。
会えなくたって・・・よかった。
ただの、私のわがままだったのに。
このままこの子がいれば、クラウスは無事だったのに・・・彼が飽きるまでは。


「奥様、旦那様からのお手紙が届きましたよ」
「?」
「お珍しいですね。やはり奥様がご心配なのでしょう。近頃は都の外のお役目が多ございますね、それも随分と遠いところで。皇室をお守りするお立場とお聞きしていましたのに」
「またどこかに行っているの?」
「あの、ご存知なかったのですか? トルコとの境だそうで。てっきりご存知とばかり」


わざと黙っていたの?
懲らしめるため?


「お帰りになられましたら夜伽を・・・」
「! 赤ちゃんがいるのに?」
「大丈夫ですよ。旦那様も心得ていらっしゃいますから」


心得てって・・・。





加減はどうだ

伝え損ねたがしばらくはまた国境の見回りだ

安心して養生しろ

私は何があろうと変わらぬ
お前とのあの約束もな





燃やしてしまおうと火にかざして、止めた。

これは・・・約状、だもの。
お守りにとっておこう。


*     *     *     *     *



(3)



でも・・・本当に・・・ここに命があるのかしら

具合が悪いだけで他に何も感じないけれど



お母様

身籠って着の身着のまま追い出されて、こんな体調で、どんなに心細かっただろう

頼る人もなくどうやって生きて・・・産んで・・・育てて・・・

もしレオニードの言ったように・・・でも誰もお母様を責めることなんて、できない



お父様

本当に酷い人

ゲルトルートは優しいって言っていた、捨て子の自分を育ててくれたって・・・

こき使われていただけなのに、あんなに感謝して

でもそれなら自分の子には?

まだ十八だったお母様には?



あの事件だって皆殺しにするはずができなくて、教会に匿ってお金まで届けていた・・・人間らしい心があったように聞こえるけれど、違う!

親と姉を殺して弟だけを助けたのは、そんな優しい気持ちじゃない

利用しようとしたのよ、いつか・・・私みたいに・・・自分のために



なのに皮肉ね、手先に使ったのは結局は祖父だった

娘を愛したのに、その娘の子を利用して、そして、死なせた

せっかく助かった命、恵まれた才能・・・なのに

復讐の気持ちは孫への愛情ですら消せなかった



第一、彼は祖父だとも名乗らなかった

修道院から引き取り親権執行人として接して・・・執事の息子と引き合わせ、両親の惨劇だけを吹き込んで・・・肉親の愛情は一滴も注がなかった

そうやって作られた天涯孤独が先生を追い込んだのでは?



私はずっと校長先生の光の部分だけを見てきたけれど、復讐なんてそれは魔がさしただけって、そう思い込もうとしてきたけれどやっぱりおかしい



怖い人

殺そうとしている相手に平然と、いえ、むしろにこやかに接し続けて尊敬や愛を得て

でも、いつどうやって殺すか、いつも考えていた、仕組んでいた・・・あの学校で、あの校長室で



幾度殺そうとした?

校長先生もヴィルクリヒ先生も、失敗しても何度も何度も、それぞれがそれぞれのやり方で

踏みとどまる機会はいくらでもあったのに



そしてあの時道連れにしなかったのは・・・愛じゃない・・・私をもっと苦しめる為・・・呪いをかけた

ひとおもいに死なすより、ずっと続く罰、苦しみ・・・自分だけは逃げて行った、地獄へ・・・最期まで好人物の仮面をつけて



だから、追い求めても追い求めても、私には安らぎが訪れない

安らぎが欲しい

安らぎが欲しい





浅い眠りから時々覚めては、いろんなことを考えた。
お母様、お父様、校長先生。

さえずりが聞こえる。
こうして毎日朝は来るのに、私の人生は夜ばかり。

それともこの帳は自分で下ろしているだけ?
私、校長先生と同じことをしようとしている?

どんなに彼が憎くても、この子には・・・関係ない。
私だけを頼りにして、今、ここにいるのに・・・私はこの子の死を願っている。





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