翡翠の歌

01 成れの果て




長い移動の疲れと緊張のためか、夜着になると倒れ込むように横になった。
あの鍵は今、胸の上にある。

忌まわしい鍵。
国を混乱に陥れたあの家族の為に私が守ってきた・・・これからこそ役に立つだろう。
彼らがあの国から出て来られればの話だけれど。

人生を掛けるだけの価値があったことなの?
わからない、今も昔も。

でも・・・何を言いたかったのだろう、あの時、レオニードは。


伯爵を信用するな


私を親代わりに育ててくれたあの伯爵を? 何故?


お前はスイスからパリへ引き返すのだ。決してドイツに、フランクフルトに行ってはならぬ、決して
ここへ戻ってはいけないの?
・・・私を・・・迷わせないでくれ


今日私のしたことは、正しかったの?


*     *     *     *     *



半身を起こされ、髪を撫でられる感覚でほんの少しだけ意識が戻った。
誰かが私の横に座り手で髪を梳いている。
この手の感触、この匂い・・・記憶にある、遠い記憶に。
お母さまが恋しくて泣いていた夜、言い知れぬ不安に泣いていた夜、ずっとそばにいてくれた。

伯爵?

瞼を開けてもぼんやりとしか映らない。
暗さのせいだけではない、きっと薬を盛られたのだ。
その人は、額や髪、首筋に口づけ、唇に重ねた。

しばらくして、やっと声を出すことができた。


「・・・伯爵?」


そう、彼は私の金髪がとても好きだった。
再び髪を梳きながら彼は話し始めた。


「感慨深いですよ、まったく。ようやく念願だった二つを手に入れました」
「・・・二つ?」


意識が朦朧として、鸚鵡返ししかできない。


「鍵とあなた、ですよ」


お父様の忠実な部下である伯爵が何を言い始めたのかわからない。


「莫大な財産。二十年待った甲斐があったというものです」
「?」
「あのような愚か者には不要です、忠臣を退け狂信者の妻に盲従した。あなたにもお分かりでしょう。いいえ、あなたこそ分かっているはずです」
「・・・愚か者でも、あれは陛下のもの・・・陛下の」
「まったくあなたは。これも私とお父上の教育の賜物ですね。喜ばしいことですが」


苦笑と共にそう言いながら、彼は私の首から鍵を取り去った。
そして飽き足らずに持論を得意気に呟きつつ、準備を整えていった。


「やはり、子どもを教育するのが効率的ですね、そうすれば難なく操れる。そして大衆は、教育を受けさせず、働かせ疲れさせ低俗な娯楽と食べ物を与えておけば、どうとでも扇動できる」


私にはなす術がない。
そうして彼は改めて口づけを始めた。
拒絶の言葉を繰り返しても止むことはなかった。
勿論、それだけでは終わらなかった。
心の中で何度もレオニードを呼んだけれど、届くはずもない。





行為を受けながらも聞かずにはいられなかった。


「・・・いつから?」
「隠し財産のことをお父上に聞いてからです。そう、初めから」
「・・・裏切って」
「それはあなたのお父上も同じだ。我々の世界に裏切りだの信義だのというのは戯言です」
「・・・裏切り者」
「お父上は、あなたが私になついておられることを危惧されていた。いずれ鍵も手に入れるだろうと」
「・・・」
「僻地に追いやり、危険な任務に着かせたが・・・私は優秀でね、勲章を得て戻った私を邪魔だてする者はもういませんでしたよ。まあ、お父上は、アネロッテ様に渡した毒ですでに廃人でしたがね」
「・・・アネロッテ?」
「パートナーでしたよ、気の置けない・・・あの財産で結ばれたね」
「・・・」
「さあ、明日、あなたはここからパリにお行きなさい。有り余る侯爵家の財産で優雅にお暮らしなさい、鍵のことはもう忘れて。私はあなたの縛を取り去ってあげたのですよ」





「最後に、あなたの気持ちを楽にして差し上げましょう」


乱れた呼吸が整うと、伯爵はいつものように優しく語りかけた。


「そうは言っても、あなたは覚えてはいないのですね、残念です、あなたが殺したゲルハルト・ヤーンとアネロッテ・フォン・アーレンスマイヤのことですよ」


私が殺した?
思いがけない話に少し震えると伯爵は抱く腕に力を入れた、幼子にするように。


「あなたの主治医のヤーンは実はフランスのスパイでしてね、私とお父上は彼を通じて偽の情報を流し利用していましたが隠し財産に勘づき、そろそろ目障りになってもいました。始末するのは簡単でしたが、お父上はあなたの教育に利用することを思いつかれたのです。人を殺すことで強くなるように」


・・・耳を塞ぎたかった・・・。


「襲われそうになった母を庇うという筋書きは親思いのあなたには相応しいものでした。もちろんお母様は反対されましたがね。そしてあなたへの"教育"は実行されたのです、あの冬の休暇に」


・・・手が自由になるなら・・・。


「もっとも、ヤーンの存在そのものが国家機密ですから、殺人事件も存在しないのです。でもあなたは、もう自分に課せられた任務を逃れることはできなくなりました。そして強くなったのです。問題解決の手段の一つに、人殺しが加わったのですから。自然に手が動くようになったでしょう? そうして次に前妻の不貞の子、アネロッテ様の始末もあなたにお任せしたのです」
「・・・アネロッテ?」
「あなたのお姉様ですよ、正妻のね。あなたの前に後継者として少しの間教育しましたが、残念ながらお血筋ではなかったので・・・と言うより、お父上は幼いながらも財産への執着の強さを懸念されたのでしょう。お父上に事実上追放された私は密かに彼女と連絡を取り合い、計画を進めました。そして仕上げにあの夜あなたを説得する予定だったのです。ですが、やはりご自分だけのものになさりたかったのでしょう。私の到着を待たずに行動に移された。ご安心ください。あの後すべて片付けておきました。彼女は行方知れずという扱いになっています。お分かりでしょう?  あなたは公式な記録上、殺人など犯していないのです、ですからドイツにも大手を振ってお帰りになれますよ」


止めどなく涙が流れ出る、悲しいのか悔しいのか。
記憶のない頃の自分の罪・・・人殺し。
それも、お父様や伯爵に仕組まれていたなんて。





そして・・・耳の奥にこびりついて離れない忌まわしいあの話・・・人殺しより忌まわしい、あの・・・。


「我慢しなくてよいのです。感じたままに声をお出しなさい。侯爵にもそうしていたのでしょう?」


固く口を閉じて意地でも声を上げまいとしている私に、少し苛立ったように伯爵は言った。


「恥ずかしいことでも何でもありません。先程の薬には媚薬も混ぜてあったのですから。あなたとの最初で最後の夜を最高のものにするために」


確かに、次第に体の奥から経験したことのない感覚が湧き上がってくる。
でも、でも、思う通りになんか、なるものですか。


「あなたは本当に意地っ張りだ。だからこそ、隠し財産を守るという役目には適任だったのですがね」


適任じゃない!


「それにしても、あなたがアーレンスマイヤ家を出て行方知れずになった時は慌てましたよ、まさかユスーポフ侯爵家に囚われていたとは。二年後レオニード様からご連絡をいただいた時には本当に驚きました。無謀にも程がありますよ」


囚われていた?


「私たちは・・・結婚して・・・」
「侯爵もそう思わせておくしかなかったのでしょうがね」


何を・・・言っているのだろう、思わせておくしかって?


「あなたは実に魅力的だ、だがそれを自覚していないのは困ったものです。周りの男は大変ですよ、あなたに振り回され、頼まれたわけでもないのに守らざるを得なくしてしまう。あなたはもっとその魅力を制御して有効に使う術を学ぶべきですね。そう、あなたのお母様のように」
「お母様?」
「あなたはお母様を崇拝していますが、事実を知ることです。もうあなたも大人なのですから。今からお話しすることであなたの抱いている幻想を打ち砕けば、私に対して素直になるでしょうね」


幻想?


「あなたをサンクト・ペテルブルクからレーゲンスブルクに送り届けた後、私はお父上に褒美を戴きました」


褒美?


「お分かりになりませんか?  お母様ですよ」





「あの方も本当にお美しかった。あの秋、湖畔の別荘で素晴らしい時を過ごしましたよ」


何を言っているの?  お母様が褒美、ですって?


「ですが残念ながら、私だけではないのです、あの方と褥を共にしたのは」





「お父上は、ご自分の目的のために必要と思われた方々にお母様を与えたのです」





「特にヒンデンブルク将軍はご執心で、月に一度は召し出されていました。そうそう、お母様がヤーン殺害に協力していなければ、すぐにあなたにも同じ役目が与えられたでしょうね。その点ではお母様に感謝しなければなりませんよ。何しろ高官や将軍・・・彼らは少女が好みなのです、意のままになる、少々はねっかえりの。まあ、レオニード様も同類でしょうがね。そう、あと一つ、大事なことを忘れていました。お父上は、お母様と正式な再婚はされていませんよ。まさか妻を他の男に抱かせるなど考えられませんからね。ですから、あなたは今でも妾の子です」





「あなたはお母様を神聖視しておられるが、そもそも間違いを犯したのはレナーテ様のほうですよ。お父上がお母様を追い出したのは・・・お腹の子ども、あなたが他の男との子だと思われたからです。挙動を怪しんだお父上が調査を命じられ、あろうことかお嬢様方のピアノ教師と。お母様はお認めになられませんでしたが、お信じになられず堕ろすように言われ、お母様は逃げ出されたのです。ああ、ご心配なく。あなたは正しくアルフレート様のお子様です。顔立ちがそっくりですよ」
「・・・」
「それにしても、どのような手段を用いたのか、記憶喪失とは。ユスーポフ家は帝国の・・・皇室の裏の世界でも重要な役割を果たしてこられましてね。先代も先々代もそれはうまくやっておられましたよ。末端の憲兵も看守も意のままに動かせた。芸術にしか能がないのも時には生まれましたが、まあ、女は婿をとればよいわけです。ただ、あの長男は・・・。先代が手を下す前に自滅しましたよ。レオニード様にはそこまでの才覚はなかったようですが、兄よりはましでした。軍隊仕込みの秘伝の方法でしょうか? 薬か拷問か。あなたの体中の傷はその時のものでしょうかねえ」
「レオニードはそんなこと・・・しない」
「まあ、これ以上は言いますまい、あなたへの最後の思いやりですよ」





それでも父と思っていた私が哀れだ。
父どころか人間ですらない。
妻や娘を人身御供にして達成する目的なんてありはしない・・・あってはならない。
枯れたはずの涙がまた溢れてきた。
いっそこのまま溺れてしまいたい。

お母様!

私の中にあるお母様は、留学に出発したあの日の姿。
帰国してからの記憶がないのが悔しい。
でも、どんな思いで十年を過ごしていたの?
お母様の苦しみを分かってあげられなくて、本当にごめんなさい。


業を煮やしたのか、伯爵は更なる媚薬を口移しで含ませた。
薬には敵わない。
私の嬌声にきっと彼は満足しただろう、二十年の褒美として。


「パリに行かれたら、あなたはたちまち社交界の華ですよ。もちろん侯爵が用意された財産で一生安泰に暮らせましょうが、権力をお望みなら、あなたの武器を有効に使うことです。あなたの体をね。生まれもっての娼婦なのですから」


娼婦?

心の奥が冷たくなる言葉。
でも、初めてではない、この感覚・・・遠い日、どこかで味わった。

薬のせいだけではなく意識は混濁し抵抗する気力もなく、ただ伯爵の求めに身を任せた、幾度も。





次に目覚めるとそこに夫妻の姿はなく、体中に残された黒い跡だけが、あの告白が現実のものだったと思わせた。





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