翡翠の歌

21 残ったのは




昨晩の諍いのせいで気まずい雰囲気の中、朝食をとった。
そして、言葉少なに自室に下がろうとしたところを呼び止められた。


「ねえ、ヴェーラ。あなたの言う通り。彼は危険ね。ごめんなさい。私、昔を思い出して美化してしまっていた」
「・・・」
「でも、あともう一度だけ会わせて。そしてきっぱりと終わりにする。約束するから」
「・・・もう・・・会わないということはできないの?」
「ヴェーラ・・・。昔の恋に今更溺れたりしないけれど、でも・・・長い空白を・・・少しだけでも埋めさせてほしい」
「・・・」
「・・・ヴェーラ。お願い。あと一度だけ会わせて。お互いをよく知ってお互いに許しあいたいの」


*     *     *     *     *



数日後の静かな夜、休む前に私たちは居間で寛いでいた。
アメリカ人には古臭く感じられるだろうが私にとっては居心地のよい歴史のある調度品に囲まれて、こうしていると故郷にいるようだ。
この地に来てから少しずつ揃えてきたものたち。

でも残念だけれど再び着の身着のままで旅立たなければならない、何とか彼女を説得して。
いいえ、それが難しいのならエヴァと私だけでも。


「ヴェーラ。明日、彼と会ってくる」
「・・・」
「ありがとう、許してくれて、本当に」
「許すだなんて・・・。でも、これが最後、本当に最後にしてね。そして、すぐにここから移りましょう」
「ええ、よくわかっている」


暫く無言で私は刺繍を続け、彼女は雑誌をパラパラと眺めていた。


「ねえ、ヴェーラ」
「?」
「あの、初めの頃、辛いことばかりと思っていたけれど、今になって思い出すのは・・・リュドミールの笑い声やあなたの優しさ、それにレオニードの戸惑った目」
「戸惑った?」
「そうよ。彼は怖くて冷たそうにしていたけれど、本当は困ったり呆れたり微笑んだりしていたのよね。だいたい彼はいつも命令口調で強引で無愛想で」
「そうね、そうだったわ。私は慣れていたから当たり前だったけど、あなたにはさぞ辛かったでしょうね」
「最初からもう少し本心を言ってくれていたら・・・。でも、私に聞く耳がなかったから、どちらにしても駄目だった、きっと」
「・・・」
「どうかしたの?」
「あなた、あさって・・・ここに戻ってくるわよね?  まさかエヴァを残して彼と行ってしまわないでしょうね?」
「・・・何を言い出すのかと思ったら、ヴェーラ、こんなことでは、うっかり思い出話もできない」
「ああ、ごめんなさい。そうね、悪かったわ」


*     *     *     *     *



でも・・・やはり・・・その予感は当たっていた。
二日後、夜になっても帰ってこなかった。
心配するエヴァを宥めて寝かし、私はマーサに連絡を取ろうと幾度となく試みたが繋がらなかった。
何かが起きたのだ。

そして明け方、フィラデルフィアの警察から、あるホテルで二人の遺体が見つかったと連絡があった。
状況から見て、襲った彼を撃ち、自殺したらしいと。





たちまち号外が出て各地が大騒ぎになった。

ロシアからの亡命貴族、誇り高き侯爵夫人が強制的に帰国させようとしたソビエト政府のスパイに拉致された挙句、凌辱された。
夫人は裸体のまま銃を奪い男を撃ち、しかし絶望の余り自らも命を絶った、と。

続報はますます熱を帯び、タイムズにも大衆紙にも各地のパーティーで撮られた清楚な装いの彼女の写真が掲載され、経歴が嘘も多分に含んで披露された。
フランスともイギリスとも異なる未知の異国ロシアの雰囲気を過剰にならない程度に出したその姿は、今、思えば計算し尽くされたものだったのだ。

アメリカ人の琴線に触れる、金髪の美女、ヨーロッパ、貴族、貞淑な未亡人。
そこに裸体だの凌辱だの、大衆が喜びそうな言葉が想像逞しく更に膨らまされた内容になって飛び交い、あっという間にアメリカ全土に広まった。

自由の国、我らがアメリカに助けを求めて亡命してきた美しき侯爵夫人。
彼女を非合法に連れ戻そうとしたソビエト政府。
しかも辱めて。

この非常にわかりやすい事件で共産主義への嫌悪感が極まり、抗議のデモが一気に熱を帯びた。
ソビエト政府を許すな!  共産主義者を排除せよ!  アメリカを守れ!



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