翡翠の歌

02 希望




(1)



神様は、どれだけ私に汚いものをお見せになればお気が済むのだろう。
私が何をしたと言うの?
ただ・・・アーレンスマイヤ家の三女として生まれただけなのに。
妾の・・・妾の子だから?  どんな扱いを受けても仕方がないの?  努力も献身も意味がないの?
お母様だって私だって、必死に生きてきたのに・・・。

このままパリに行っても、もしかしたら伯爵の言った通りの人生になるかもしれない。
ずっと疑いもしなかった人に裏切られて・・・これからも?

それなら・・・。
そんなことになるくらいなら・・・。

ロシアに戻ろう、来た道を逆に辿って。
女一人でできるかどうかはわからないけれど・・・でも、あの都に、レオニードのところに・・・。





こんな名前・・・どうして娘につけられるのかって、ずっと思ってきた。
いくら偽名だって、"死んだ女"なんて。

そうだったのよ。
お父様にとって私は・・・初めから"死んだ女"だったのだ。
死んでもいい女・・・だからどんな扱いをしたって構わなかった。

でもレオニードが私を呼ぶ時は、そんな意味は少しも感じなかった。
優しくて、暖かくて、力強くて・・・。





「あのね、気がついたの。あなたの名前と私のドイツでの名前、一緒でしょう?」
「レオンハルト、か」
「そう。帰国する少し前に教えてもらった、これからの名前。使った記憶は、呼ばれた記憶はないけれど。でも偶然よね、同じ名前なんて」
「そうだな」
「ねえ、あなたは幾つ名前を持っているの?」
「幾つ?」
「ええ」
「普通は一つだろう」
「そうよね。私、自分でもこんがらがって。男だったり女だったり、ウクライナ人にドイツ人。忙しいったら」
「はは、お前だからできたことだ」
「こりごりよ。今が一番落ち着く・・・いい意味ではないけれど」
「・・・他の、名がよいのか? そう呼ぶか? 例えば・・・ユリア」
「・・・そうね。どうしようかしら・・・。でも・・・その名前は・・・お母様のものね。伯爵たちはずっとユーリだったし。そう! マフカはあなた専用の名前よ」
「それは光栄だ。意味など無用だ、私にとってお前は・・・光り輝く者だ」





ああ、もう一度、呼んでほしい。

でも、きっと怒る。
何にも動じないあの黒い瞳が困惑して、呆れて。
私にだけ見せてくれるあの瞳の奥にある熱い輝き。
あれほど美しいものがあるかしら。

汚されたままで人生を終わりたくない。


*     *     *     *     *



再び銀行に行き本物の鍵を手に入れた。
昨日偽物と一緒に引き出した拳銃とナイフはいつの間にか取り上げられてしまっていたけれど、本物のほうにも入っているの。
今ここにあなたがいなくてよかった、伯爵!
あなたは私が二人殺したって、そう言っていたけれど、あなたを三人目にしても、私、後悔しない。

でも・・・忘れよう、彼のことは・・・。
そんなことよりも・・・レオニードの怒って戸惑った様子を想像すると、不思議に昨晩の辛さも和らいでいく。
きっと受け入れてくれる・・・もしかしたら待っているのかもしれない。
迷わさないでくれって言っていた・・・それは、迷っているってことよね。

四年の記憶しかないのがとても残念だけれど、強くて優しいレオニード、本当に愛している。
鍵の秘密も一緒に守ってくれた、支えてくれた。

でも・・・妙なことを・・・囚われて?  結婚したことにして?
ううん、気にする必要ない、あんな裏切り者の話、思い出す価値もない。

鍵のことは・・・もういい、十分、十分やった、私。
少なくともあの裏切り者からは守ったのだから。
そう!  サンクト・ペテルブルクで陛下にお渡しすればいい、あの方たちの財産ですもの。
それで私の役目は終わり、この二十年の役割はそれで終わり。

あとは・・・レオニードと・・・最期まで。
死ぬのなら一緒に・・・。





そうね、ヴェーラには・・・会わずに。
手紙で伝えよう、別れの言葉を。
偽りだらけだった私の人生の中の、ただ一つの真実のために、レオニードの元へ行きます、と。





どうしたんだろう、何だが目眩がする・・・気分が悪い。
昨日の薬はとっくに抜けているはずなのに。
ああ、だめ、こんなところで意識を失ったら。

パリへ向かう列車に乗る直前、待ち合いで動けないでいると見かねたシスターが数人寄ってきて、一言二言交わした後、教会の病院に連れて行ってくれた。





赤ちゃん・・・。
信じられない。
あの酷い流産から一向に兆しがなく、もう諦めていたのに。
神様、感謝します。





ロシアには戻らない、レオニードのところには戻れない。
あの強い腕に縋りたいけれど、今度こそ私がこの子を守らなければ。
少し落ち着いたらパリに向かおう。

ああ、でも、知らせたい・・・せめて。

駅で助けてくれたこの教会病院の婦長は信頼できそうだったので、ロシアに電報を打ってくれるようお願いしてみた。
なのに、混迷を極めるロシアへの電報はもう扱っていないって。
それなら手紙だって届くかどうかわからない。

電話は?
ロシアへだなんて、交換台から通報されて拘束されてしまうかもしれない。
でも知らせたい、どうしても。
知らせなければ、逝ってしまう前に。

公用の電報を使えないかしら、大使館に行って身分を明かせば。
無理・・・証明できない。

誰か大使館に知り合いは?
確か三年前、シュラトフ・・・シュラトフ大尉が赴任したはず。
レオニードに挨拶に来ていた。
もし今でも・・・。

電話を借り、立ち聞きに注意しながら呼び出した。
あいにく不在だったけれど、昔の知り合いのマフカ・ロサコワが旅行中に体調を崩して病院にいるので助けて欲しいと伝言した。





彼は戸口で少しだけ驚いて、すぐに平静になってそばへ寄ってきた。
周囲の目があるので、小さな声で交わす。


「奥様、どうなさったのです?  侯爵閣下はご一緒なのですか?」
「ありがとう、来てくれて。レオニードは今もロシアよ。私はフランスへ行く途中なの」
「そうだったのですか。すぐに奥様に相応しい病院をご用意致します」
「いいえ、体は大丈夫です。それより、あなたにお願いしたいことがあるの、レオニードに電報を打ってほしいのです、大使館から。もう一般の電報はロシアに届かないそうなの。でもそんなことを頼むとあなたのお立場を悪くしてしまうかしら?」
「お気遣いはご無用です。侯爵閣下のご推薦で統括者となっていますから。それに・・・奥様のご要望でしたらどのようなことでも」
「ありがとう、本当に嬉しいわ」


*     *     *     *     *



(2)



私は思い出していた。
彼女が侯爵に捕らえられてからの三年、内務省に異動するまで、監視する役目も担っていたことを。
特に最初の頃は幾度となく脱走しようとして連れ戻したものだった。

何か重要な秘密を抱えているドイツの少女・・・。
侯爵家と繋がりがある・・・いや、皇帝陛下とも・・・。
今諜報部に所属していても、わからない秘密だ。

そうとは思えないほど華奢な少女だったにも関わらず、ことあるごとに反抗し、ついには拷問にかけられた。
彼女にはその記憶がない。

侯爵の愛情を一身に受けていたのに、遂に心を開かなかった彼女。
偶然が重なって願いが叶い、アレクセイ・ミハイロフの妻となった彼女。

ああ、あの時・・・ドイツ人妻をもしやと思い確かめに行った時の、彼女!
知り合いらしい女性と裏通りを連れ立って歩いていた。

輝く金髪はすっかりプラトークに収めていたが見間違うはずもない。
そうだとすれば、その表情だった。
一度たりとも見たことのないあの笑顔、穏やかで明るい笑顔。
何を話しているのか、心から楽しそうに笑っていた。
求めてやまなかったものをついに手に入れていたのだった。

けれども私が侯爵に知らせたため連れ戻され、夫人となった。
彼女にはその記憶もない。

だが、自分には記憶がある、いつの時も美しかった、今も・・・。
できる限りの力になろう、あの頃の贖罪としても。


*     *     *     *     *



(3)



「内容は何でしょうか?  政治的なことですと念入りに暗号化しなくてはなりません」
「いいえ、政治ではないわ。でも大切なこと。ロシアを出る時には気づかなかったの、赤ちゃんができていたって」


少佐の目が少し輝いて見えた。


「それはおめでとうございます。是非ともお伝えしなくてはなりませんね。侯爵閣下もさぞお喜びでしょう。何と打電致しましょうか?」
「そうね、直接過ぎると恥ずかしがるだろうから、『ナマエコウ』とでもしましょうか」


一瞬不可解に思ったようだったが、でもわかったらしく少し笑った。


「・・・奥様も意地悪でいらっしゃる。それだけでよろしいのですか?  どのようなことでも秘密は守られますよ?」
「ありがとう。十分よ。言いたいことは全部言ってきたから。発信者はどうしたら良いかしら?」
「そうですね。奥様のお名前でないほうがよろしいでしょう。私の名にしましょう。元部下ですからどうとでも説明はつきます」


*     *     *     *     *



体調が落ち着いた数週間後、私は少佐と共にパリへ向かう列車に乗っていた。

電報は届いただろうか?
意味は通じただろうか?
喜んでくれただろうか?

・・・間に合っただろうか・・・。

本心は・・・。子どものためにならレオニードも亡命の道を選ぶかもしれない、私のところへ来てほしいと願っての電報。
でも、それは叶わない夢ということも本当はわかっている。

そうして・・・ようやく再会したヴェーラから、陛下が退位された・・・と・・・知らされた・・・。


*     *     *     *     *



(4)



それぞれの勢力が牽制しあいながら次の一手を画策している。
我々のクーデターが成功せねば帝国は革命家どもの手にわたり、滅びてしまう。

だが、陛下には未だご理解いただけぬ。

考えてみればおかしなものだ・・・このような事態となる遥か以前から亡命用の財産を各国に送っているということは。
ひとたび国を離れたならば、もう国を統べるなど容易には出来まいに。





あの伯爵は偽物を掴まされ、フランクフルトで貸金庫を開けることができず、茫然自失のところを拉致、始末した、妻も然り。
その場にいなかったということは、お前は無事パリへ向かったのだな。

今生の、別れだろう。
生きて見えることは叶わぬ。

おかしな話だ。
真の闘いはこれからだと言うに。
それから逃れるつもりも手加減するつもりもないのだが。

しかし歴史はすでに定まっている。
どう足掻いても。
帝政は、これまでの帝政では無理だ、祖国のためにも。
跡形もなく消え去るか、それとも。

何れにせよ、如何に流血を伴おうとも、産みの苦しみだ、新生ロシアの。
奴らも我々も鬼となり、互いに、そしてそれぞれの内部でも血みどろの戦いが。
更には内戦の混乱に乗じて各国が干渉してくるだろう。





マフカ。
お前が陛下をお支えする。
それが私の心をどれほど安堵させているか。

躊躇することなく手加減することなく・・・信義を貫けるのはお前がいるからだ。
感謝する、心から。
私の人生を完全に昇華できることを・・・祖国の未来のために。
これほどまでに愛し尊敬できる女に出逢えたことを、神に深謝する。

いつの日かあの世で会おう。

いや、それは叶わぬか。
その時はお前はマフカでもユリウスでもなく、ユリアとして奴の妻になっているだろうからな。
もう争うのは御免だ。





ヴェーラもリュドミールも、そしてお前がいなくなってしまった屋敷はひっそりとしている。
自分の靴音が響くのをこれほど感じたことはない。

書斎へ向かう途中に立ち寄った。
カーテンを少し開け夕陽を入れると、主をなくした空間は寒々としていた。
微かに残るお前の匂い・・・そして肖像画。
十三の時初めて見知り、強引に愛人に、妻にし、二十六で手離した。
幸せだったと言ってくれたが、これからの人生で本当の幸せを得て欲しい。
鍵の呪縛から解き放たれて・・・私の呪縛からも。

そしてもし・・・記憶を取り戻すことがあったら・・・。
ヴェーラから子のことを聞くがよい、再会して幸せに。


*     *     *     *     *



執事が数通の電報を持ってきた。
全て軍用のはずだが、これは?
在スイス大使館?

"ナマエコウ"

ヤロスラフ・シュラトフ?

何だ、これは。
誰の名を知りたいのだ。
あの男は、暗号を組み間違えたか?

ほかの電報への対応に忙殺され、この奇妙なものは後回しにした。
一段落し、ようやくお茶を飲みながら見直してはみたが一向に解読できぬ、このわずか数文字が。





ヤロスラフ・シュラトフ。
あれは有能な男だ、政変があっても生き延びていくだろう。

そう言えば・・・そう言えば、あいつはシュラトフには懐いていたな。
懐くというのも変だが・・・ロストフスキーよりはとっつき易かったのだろう。
三年ほど前か、赴任の挨拶に来た際、昇進祝いにピアノを弾いてやっていた。

!!

まさか、これは?

そうだ、今我が国では国際電報は信頼できぬ。
国外からなら公用しかない。
あいつは伝えたいことがあってシュラトフを思い出し、大使館から打電したのか?

"ナマエコウ"

まったくあいつは・・・最後まで手こずらせる、単刀直入に言えばよいものを。
伝わらなかったらどうしたつもりなのだ、このような重要なことが。

子が、授かったのだ、授かっていたのだ。

神よ、感謝します。





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