翡翠の歌

18 時効




「ねえ・・・。これから話すこと、もう・・・時効かしら? そうよね、きっと。だから・・・話すわ。それで今更私を嫌いになっても、もう遅いもの!」
「何だ? そんなの、無理して話さなくたっていいんだぞ、俺は全部知りたいわけじゃない」
「いいえ、聞いて。あなたに聞いてもらいたいの。ごめんなさい、自分が楽になりたいの・・・私ね・・・最初からあなたを騙していた、裏切っていた」
「?」
「私のお父様はね、ドイツ帝国陸軍の幹部だったって昔話したことがあったでしょう?  でも、本当は・・・ロシア帝国の・・・皇帝陛下のスパイだったの」
「?」
「それでね、陛下から亡命に備えた財産を預かっていたの。フランスやイギリスにも同じ役目の人がいたわ」
「財産を?」
「そう・・・巨額の・・・見たことはないけれど、ね。私、妾の子で、お母様は私を身籠った途端に捨てられて・・・あまりの貧しさに心中未遂までした。でも五つの頃、急にお父様が現れて、部下夫婦と各地に留学に行かされた。お父様は私を裏の仕事を継がせるつもりで・・・その為だった」
「スパイ・・・か」
「・・・陛下に・・・ロマノフ王朝に・・・忠誠を誓わされた。私、幼くてよくわからなかった、何のことなのかなんて。でも朝夕のお祈りのように繰り返し繰り返しそうするとね、心の奥底まで染み込んでしまって、自分ではどうしようもないの・・・それでね、隠し財産のロシア側の任を担っていたのが・・・ユスーポフ侯爵家だったの」
「!」
「私・・・留学の最後の二年は・・・レーゲンスブルクに帰る前は・・・サンクト・ペテルブルクにいたの」
「何だって?」
「そう、もしかしたら私たち、通りですれ違っていたかもしれない」
「・・・」
「でもあなたはその頃、辛い目にあっていたのね」
「ああ、そうだ、兄貴が・・・」
「その二年間に二回だけ、レオニードに会っていたの、一度は一緒に陛下に拝謁した時。二度目は・・・ネヴァ川の突堤で。学校帰りにいつものように夕陽を見ていた私を、たまたま通りがかった彼が見つけて。二回とも、本当に少しの時間だけ。でも・・・その時・・・もう・・・別に・・・何がどうできるっていうわけではなかったでしょうけれど・・・でも・・・」
「何だ?  どうした?」
「彼ね、レオニード・・・夕陽を見た突堤のすぐ前のお屋敷を買い取ったの。ほら、後で私が監禁された、あのお屋敷」
「買い取った?  何の為に?」
「だから・・・何がどうできるっていうわけではなかったのよ。だって私、すぐにドイツに帰ってしまって、もう二度とロシアに来るはず、なかったから。ドイツで、陛下が亡命される時まで隠し財産の鍵を守るのが私の役目だったのだから。彼だってわかっていたはずよ・・・」
「どう言う・・・ことなんだ?」
「時々、そのお屋敷に立ち寄って夕陽を見ていたらしいの・・・つまり!  私に・・・」
「恋・・・か?  あの男が?  お前に?  たった二回、ちょっと会っただけで?  あの・・・氷の刃と呼ばれたあの男が?」
「・・・そう・・・みたい」
「いや・・・俄かには信じ・・・られんな・・・」
「本当に、ね。およそ似合わないわよね、私だってなかなか信じられなかったもの。それでその二年後にあなたを追いかけてサンクト・ペテルブルクに着いてすぐ、私、懐かしいその突堤に行ってみたの、夕陽を見るために」
「そうだ、一度聞こうと思っていたんだ。あのな、お前、本当にばかたれだな。俺がサンクト・ペテルブルクにいるとは限らないじゃないか。例えそうでも、あの広い街で隠れて活動している俺をどうやって見つけるつもりだったんだ?」
「だって・・・私、利口じゃないもの」
「まったく、無謀な奴だ。呆れるよ。あんな動乱の国へ、十五、六の女が一人で」
「そうなの・・・以前よりずっと治安が悪くなっていて、その突堤で憲兵隊と民衆の小競り合いに巻き込まれたの。逃げる間もなく撃たれて倒れてしまった・・・そのままだったら私、その場で殺されたか憲兵隊に引っ張られていた。偽造パスポートでの密入国だもの、きっと、拷問にかけられて死んでいたでしょうね。でも・・・その様子を彼が窓から見ていて、助けてくれた」





「助けられたことは良かったのだけれど・・・結局そのまま監禁されて。隠し財産の秘密が他に漏れないようにって、陛下からの保護命令が出て。保護という名の監禁よね。お金も取り上げられてしまって。側近の部下たちやお屋敷の警護の兵士も多くて逃げ出せなかった」
「だが、あいつはお前を・・・お前に好意を持っていたんだろう?」
「そうね、でもあの頃、多分・・・彼自身も気づいていなかった。何しろ彼は私同様に、いいえ、比べ物にならないほど陛下の御為に生きていた人だから。私が役目を放り出してサンクト・ペテルブルクに来たことをとても怒って、その理由を知りたがった。早々に調査報告があったらしくて、そこであなたの存在がわかってしまったみたいなの。で、ね。結局、あれは、嫉妬だったのね。あなたを忘れない私を許せなかったみたい。暴言は浴びせるわ、鞭で打つわ、青あざと出血の日々だった・・・」
「何て奴だ!  あいつ、よくも!」
「本当ね、本当に辛かった・・・でも、もういいの、それは。私が言いたいのは、それだけ彼は私を愛していたってこと。私のほうは気づくどころか怖くて恐ろしくて、いくら優しくされても、いつも顔色をうかがいながら生きていた。彼は子どもを欲しがって、二度身籠ったのだけれど、一人目はあなたが監獄の火事で死んでしまっていたってわかって動転して流産したの。癖になって二人目も。その療養先からの帰りにあなたたちの仲間に誘拐されたの」
「そう・・・だったのか。随分と酷い目に遭ってきたんだな」





「一斉摘発の時に助けられてマリアを産んで記憶を失って、それからは優しいレオニードの思い出しかないの。彼もやっと私が自分だけのものになったから、余裕ができたのでしょうね。そして陛下が退位される少し前に亡命させてくれて、そこでエヴァを産んだの。エヴァの名前はね、彼がつけたのよ。身籠ったこと、私、電報で知らせていたから、後から亡命してきた従姉妹に言伝してくれた。間に合って本当によかったと思った、逝ってしまう前に知らせることができて。きっと・・・きっと・・・クーデターは失敗したけれど、このことだけは幸せだと思って・・・逝ったのだと・・・」
「・・・エヴァ・・・命、か。あの男の・・・最後の想いだ、な」
「そう・・・。それでも私、記憶を取り戻した時、初めは恨んだ、彼を、私を騙していた彼を。でも・・・わかったの、やっぱり、彼は私を愛していたって」
「ユリア・・・俺もわかったよ、充分に。妬けるけどな、お前と侯爵のこと・・・いろいろ辛い目にも遭わせたが、あいつはお前のことを愛していたんだな・・・お前も・・・」
「・・・そしてね、鍵のこと。レオニードは、もし御一家のどなたも亡命できなかったら私が渡す先を決めていいって言ったの。私が、私とヴェーラの為を考えて決めていいって。考えた、亡命されている皇族方の中でどなたにお渡しするか、何が私たちの為になるのかって。帝政の復活は考えなかった。だってもう無理だもの、歴史の歯車を逆回転させることは。で、ね、私、新しい国の安定も望まなかった、ごめんなさいね、あなたたちのやっていたことを邪魔したの、革命政府からエヴァやマリアを守るには、ずっと混乱していたほうがいいから・・・理性的に行動されるだろう方、キリル大公殿下にお渡しした」
「キリル、か。それで・・・」
「?」
「いや、何でもない、それで?」
「殿下は予想通りうまくやってくだされた、ご自分が皇位継承者と宣言して、正教会を各地に建てて亡命者を支援して、白軍に援助して革命政府を揺さぶって。もちろん所詮は無駄な努力よ、ね、そんなこと、歴史の流れの中では。でもいいの、エヴァやマリアを守ることができれば、少しの間だけでも。そしてアメリカ政府に協力して共産主義者をあぶり出す仕事もしてきた、彼らが私たちを守ってくれるようにね」
「お前・・・よくやったな、感心するぜ、正に筋金入りの活動家だ!」
「嫌だ、やめて!  それ、褒め言葉になってない!」
「じゃあ、さすが俺の妻だ!  無謀に手足が生えているような怪物が俺の妻だったとはな」
「もう!・・・それで、ね。最後に話しておきたいことがあるの。別に懺悔じゃない・・・何も後悔していないから」
「?」
「私ね、何人も殺しているの。ドイツでもロシアでも・・・ここでも・・・」
「・・・」
「活動家は何人も・・・それだけじゃない・・・親族・・・腹違いの姉も義理の従弟もね」
「・・・お前・・・何が言いたい?  俺だって、俺の手だって血塗れだ。そんなこと、わかってるだろう?  何が言いたいんだ?」





彼女は左腕を俺の背中にまわし、首筋に口づけするかのように顔を埋めてきた。


「つまり、ね・・・私・・・エヴァを守る為にだったら何でもする・・・何でもできるって・・・いうことよ。私たちのマリアを守るのは・・・当たり前よ、でもより危険なのはエヴァ、出自のせいで革命政府に狙われている・・・。あなたにとって敵の娘でも、私には、愛した人との娘だから・・・」


背で隠し、尾行に気づかれない角度で俺の胸に何かを・・・押し当てた。
微かな金属音・・・聞き慣れた音だ。


「おい・・・俺の命は・・・もっと有効に使えると思わないか?」





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