翡翠の歌

13 闘い




(1)



夜、電話が鳴り響いた。
嫌な予感がする。

ニューヨークのホテルから、サークがかけてきたものだった。

食事後一時間くらいしてシガーバーから戻ると部屋にヴェーラがいなかった、ホテル中を探したが見当たらないと言う。
警察には知らせず私に任せて、と伝え、時刻を確認した。

ニューヨークからの大西洋航路を調べた、一番早いのは、明朝九時出港のマルセイユ行きだ。
他にリバプール行きもあるけれど、陸続きでロシアに行けるマルセイユだろう。
外交官特権を使い時刻ぎりぎりに出国するに違いない。
まだ間に合う・・・どうにか間に合って。


*     *     *     *     *



私はレストランでサークと別れ部屋に入ろうとしたところを後ろから捕らえられ、声を上げる間もなく薬品の匂いで気を失った。
気がつくとどこかの部屋の真ん中で椅子に縛りつけられていた。


「お目覚めですか?  ヴェーラ・フェリクソヴナ・ユスーポワ」
「・・・あなたは?」
「ご安心ください。書記官のスミノフです。ただし、ここは大使館の一室ですからね、大声を出されても、あなたを助けにくる人はいませんよ」
「私をどうしようというの?」
「これは異なことをおっしゃる。あなたには母国から逮捕状が出ているのですよ、反逆者として。ご存知と思いましたが」
「何にも反逆などしていないわ」
「貴族であった、ということだけで反逆者なのです。ましてあなたは皇室をも凌いだ大貴族の娘だ。我々を弾圧し、クーデターを首謀したレオニード・フェリクソヴィチ・ユスーポフの妹。そして、反逆者リュドミール・フェリクソヴィチ・ユスーポフの姉」
「リュドミール?  あの子はあなたたちの仲間でしょう?  反逆者などと!」
「あなたはこれからモスクワに送還されます。彼とはルビヤンカで会えるでしょう。まだ息があればの話ですがね」
「何てことを!  あなたたちは!  それが共産主義なの?」
「あなたに納得していただく必要はありませんな。勿論反逆者でも裁判を受けられますよ、我々は公正な政府ですからね。ただ、元貴族への情状酌量はあまり期待しないでください。そうそう、あなたが不当に所有している財産を人民に返すと言うのなら、少しはましな扱いを受けられるかもしれませんが」


部下らしき男が腕に何かを注射した。


「次に目覚める時はこんな明るい部屋ではありませんよ。でも淋しがることはない、すぐにユスーポワ夫人もお連れしますから。もっとも、彼女にはドイツのスパイ容疑もかかっていますので、すんなりとは死ねないでしょう。ああ、実に楽しみだ」


恐ろしい言葉を最後に意識が遠のいていった。





朦朧とし口もきけない状態の私は車椅子に乗せられ、港の出国カウンターらしいところにいた。まずスミノフ書記官が終わり、その妻という説明で手続きが始まったようだった。


「病気なのでね」


十分に顔の確認もサインも出来ないだろうに、特権は妻にも及んだらしく、正に出国が許可されようとした時、数人が駆けつけてきてそれを押し留めたようだった。
事態を察したスミノフは何事もなかったように、船に乗り込んで行くのが見えた。


*     *     *     *     *



(2)



目覚めると、そこにはマフカの姿があった。

あれは、夢だったのだろうか?


「大丈夫?  もう少しすれば薬も切れてくる。安心して。ここは安全よ」


ああ、現実だったのだ。


「私、どうして?」
「港で阻止してもらったの、アメリカ政府の友人たちにね」
「友人?」
「まあ、仕事仲間と言ったほうがよいかしら」
「仕事?」
「この国を共産主義から守る仕事よ」
「あなたが?」
「私たちを守ってもらうためよ、今回のようにね」


安堵の溜め息をついたら、あの言葉が蘇ってきた。


「あの男は?  スミノフとか言った」
「彼ならもう国境を越えた頃でしょう。そして二度とアメリカには来ない。任務に失敗したのだから」
「・・・ルビヤンカ・・・ルビヤンカって言っていたわ、リュドミールがそこで死にそうだと」
「・・・モスクワのルビヤンカ通りにある秘密警察のことよ・・・。ヴェーラ、辛いけど、リュドミールのことは諦めて」
「私が行けば引き換えに助けてくれるかしら?  財産も渡して」
「それは・・・。本当にこんなことを言うのは辛いのだけど、彼らは私たち元貴族を一人残らず殺すつもりなの。皇太后様や大公殿下の周りからも次々と消えていっている。そして私たちは・・・ユスーポフ侯爵家の人間は・・・抹殺リストの筆頭。リュドミールはとうに・・・。あのスミノフが期待を持たせただけ、あなたをいたぶるために。ごめんなさい、酷いことを言っているってわかってる」


*     *     *     *     *



帰宅後、彼女は侯爵家の紋章を細工した小箱を私に渡した。
開けると・・・髪が・・・見覚えのある巻き毛が・・・。
震える手で取り出し口づけした、滴る涙を止める術などなかった。

私は知らなかったけれど、以前彼女の誘拐計画が実行されようとしていた時、秘密裏にそれを知らせてくれたシュラトフ少佐から受け取ったという。
拷問を受け苦しんでいたあの子に薬を・・・毒を飲ませたと。

拷問なんて・・・あの子から何を聞き出そうと言うの?
取り調べの名を借りた処刑じゃないの、長く苦しませて。





「初めて会った時のこと、昨日のように覚えているわ」
「リュドミール?」
「ええ、ふわふわの白い布に包まれて、あなたの弟ですよって。あの頃は我が家も大変で、お母様は心労でモスクワにおいでのままだったし」
「何があったのか、聞いてもいい?」
「もちろんよ、今更お話ししてもどうにもならないことだけれど。レオニードお兄様の上にもう一人お兄様がいてね。フィリップお兄様。お母様に似て、芸術家肌の、そうね、ユスーポフ家の跡継ぎとしては少し、奔放で繊細な人だった。私はまだ小さくてよくは分からなかったけれど、お父様のご期待に反することが多かったらしくて、よく言い争いをしてらした」
「そうね、侯爵家はいろいろと大事な役目を担ってらしたものね」
「ええ・・・それで、あのアデール様と婚約して」
「え? そうなの?」
「そう、政略結婚。今考えれば、あの隠し財産の為ね」
「そうだったの」
「だけどフィリップお兄様には恋人がいて、それも伯爵夫人だったの。その挙句、伯爵と決闘して・・・亡くなってしまった」





「しばらくして恋人が子どもを産んで・・・フィリップお兄様の。それがリュドミールなの。孤児院にやられそうだったのを、あまりに不憫で弟として引き取ったの」
「それで、リュドミールは跡継ぎにはなれないってレオニードが言っていたのね」
「そう。伯爵のお母様が皇太后様の御親族でとてもお怒りに。でも私達は・・・弟として接したつもりよ。私だって長いこと知らなかったのだもの、きっとリュドミールも知らなかった」
「・・・そう、ね」
「でも公爵家は面子を潰されてしまって・・・それでも皇室の、陛下のご意向は両家の婚姻だったの。そしてレオニードお兄様と婚約し直して」
「そうなの、そこまで拘っておられたのね」
「お兄様は性に合っていた軍隊三昧の生活から、急に跡継ぎになって。事情が事情な上に、レオニードお兄様もアデール様もあの性格でしょう? まして私もリュドミールもいたしね、うまくいくはずなかったのよ」
「そうね、随分と大変だったわよね」
「それでも・・・一度は懐妊されたの。でも、制止を無視して出かけた夜会で階段を踏み外して・・・」
「・・・だめ、だったのね?」
「そう。それからはもう形ばかりの夫婦だったわ。見ているのが辛いくらい」
「あの隠し財産の為に・・・レオニードもアデール様も、人生を狂わされたのね」
「お兄様は割り切っていらしたようだけれど、でも・・・やっぱり辛かったのでしょうね、だからこそあなたに安らぎを求めていたのかもしれないわ・・・身勝手な話だけど」





何の為に・・・私たちは犠牲になったのだろう。
故国は、皆が幸せに暮らせる新しい国になったはずではなかったのだろうか。





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