15 最後の歯車
(1)
夕刻に届いた何通かの手紙。
いつものようにほとんどは寄付や支援を求めるもの、同胞からの近況を知らせるもの。
でも一通、その一通はありふれた封筒だったけれど、懐かしいロシアの匂いがした。
差出人の記載はなく、タイプで打たれた宛名。
なぜか怖かった。
これを開けると何かが始まる、終わりに向かって・・・。
皆が寝静まるのを待ち、意を決して開封した。
まさか! ああ、まさか、アレクセイ?
あなたなのね? 生きていてくれたのね!
ユリア
生きていると最近知った
本当によかった。あの時、死んでしまったとずっと思ってきた。想像もしていなかった、ユスーポフ侯爵に助けられていたとは。複雑な気持ちだが、ともかく生きていてくれて嬉しい。最近のソビエトに馴染めず、俺も亡命してきた。会いたい。隣町のホテルにいる。待っている。
便箋の隅を確かめてみる。
間違いない、ごく細い針でこれがアレクセイの手によるものとわかる印が入っている。
*
5階の部屋・・・あのアパートと同じね。
ああ! 変わっていない! 私のアレクセイ!
言葉は要らなかった、いいえ、言葉など忘れてしまった。
思わず駆け寄り抱き締めた、抱き締めてくれた。
* * * * *
(2)
「同志アレクセイ。君に党への忠誠を見せてもらいたい」
「日頃、十分に見せていると思うがね」
「ユリア・ミハイロヴァを覚えているか?」
「・・・」
こいつのような奴にユリアの名を口にされ、侮辱されたように思えた。
「答えたくないならそれでもいい。いずれにしても今から私の言うことは党の命令だ」
「・・・」
「君の妻だったユリアはユスーポフ侯爵に助けられて摘発の手を逃れ、挙句に侯爵の妻になったことを知っているか?」
「!?」
予想外の話に驚いたが、スミノフに突っ込まれてたまるかと無言で受け流した。
「女というものは恐ろしいな、自分が助かるなら夫も党も裏切るのだからな。あるいは・・・かねてからの噂通り、夫婦して裏切り者か? 都合よく脱獄し、都合よく摘発から逃れてここまで生き延びた。羨ましい限りの幸運の持ち主の同志アレクセイ」
「・・・聞き飽きたな、その噂は。どう弁明したところで信じるつもりはないんだろ。で、要件は? こんな俺でも暇じゃないんでね」
「まあ機嫌を直せ。その噂を根絶する機会を与えてやるんだからな。いいか、元侯爵夫人のマフカ・アレクサンドロヴナ・ユスーポワは、今アメリカのボストンに住んでいる。人民から搾り取った富で優雅にな。これだけで十分な逮捕理由になるが、その上、彼女は亡命に備えてニコライから預かった莫大な財産を、あろうことかキリル元大公に渡してしまった。キリルはそれを使って各地の白軍に支援し、正教会を建て元貴族や反共産主義者のやつらの足場にしている」
「へえ、初耳だな、それは」
「最高機密だからな、君のような階層が知るはずがないだろう」
「・・・」
「へそを曲げたか?」
「・・・」
「その一方で彼女はアメリカ政府に協力し反共思想を広めている」
「なかなかだな。で、要件は?」
「彼女を捕まえてこい」
「?」
「半年以内にフランスへ連れてこい。そこからは我々がやる」
「なぜフランスなんだ?」
「モスクワに行くとなったらさすがに同意しないだろう? 観光でもバカンスでも気楽な理由をつけてな、貴族どもが喜びそうな」
「・・・侯爵の妻になった彼女が俺に従うか?」
「方法は自分で考えろ。だがな・・・娘がいる。今、十五くらいか? フランス国籍も持っているのでな、厄介な状況は避けるのが上等だ。故に、だ、我々としては手は出せないが、まあ、何かの事故に遭うということはあり得るな。とかくアメリカは物騒だ」
「お得意の脅迫か」
「それとも、元妻が産んだ他の男の子どもなど関係ないか? 彼女は娘を溺愛しているぞ、そりゃあそうだろうな、異国で生きていくには甲斐というものが必要だ。ああ、念のために言っておこう」
獲物を前にして舌舐めずりしてやがる、相変わらず嫌な奴だ。
「元妻とよりを戻そうなどと思わないことだ、彼女はそのキリルの愛人だからな。頻繁にパリを訪れてはアバンチュールを楽しんでいるぞ。我々もフランス政府と懇意にしている元大公の周辺で事は起こせない。そこで君の出番というわけだ」
「・・・連れ戻して・・・どうする?」
「まず、侯爵家の財産を人民に返させる。そしてニコライの隠し財産の真相を調べる。ドイツ政府との関係もな」
そのあと・・・殺すつもりだ、なぶり殺しに・・・反逆者として。
こいつの貴族嫌いは有名だ。
もうさして力もない亡命貴族たちを捕らえて処刑することに執念を燃やしている。
人民の為にやるべきことが山積しているのに、な・・・。
そして、こいつにとっては俺も・・・貴族だ。
首尾がどうなろうと難癖をつけて、ユリアと共に殺すつもりだ。
一挙両得というわけか。
「ともかく君には選択の余地はない。すべて用意してある。引き継ぎを済ませて一週間後に発て」
*
ユリア・・・。
本当に生きているのか、アメリカで。
どうなったのか確かめる術もなく、ようやく記録を見ることができたのは、あれから十年も経った後だった。
ユリア・ミハイロヴァ ― 反逆容疑 ― スパイ容疑 ― 脱獄囚アレクセイ・ミハイロフの妻 ― 国籍不明 ドイツの疑いあり ― 妊婦 ― 拘束時の銃撃により連行途中、死亡 ― 共同墓地に埋葬
時を経て凍りついた、お前の最期を思って。
* * * * *
(3)
「何を考えているの?」
「いや、何でもない」
「それなら、そんな難しい顔をしないで。せっかく会っているのに!」
「すまん、まだまだこういった自由に慣れていないんだ。それにお前にも」
党にあてがわれたアパートメントの一部屋で、二人で毛布に包まりながら話すのは、これで幾度目だろう。
お互い、話は尽きなかった。
「悪かった」
「えっ?」
「俺は自分のことしか考えていなかったよ、ずっと」
「それは私もよ。だから言いっこなし。ねえ、ほら、これ。覚えている?」
「お、随分と懐かしいもんじゃないか。へえ、まだ持っていたのか」
お前の体は温かくて柔らかくて、俺を包み込んでくれる。
こんな安らぎは遠い日の想い出の中にしか記憶にない。
俺の人生は革命に捧げた。
だが、今は・・・その革命を信じることができない。
* * * * *
ゲオルグス・ターラーの鎖に通してあった指輪。
ヴェーラがあの時、あの子に持たせた・・・レオニードから守った。
こうして抱き合っては話し、話しては抱き合っていても、二人とも本当の心は硬い玉の中に閉じ込めて明かしてないように感じる。
アレクセイに対して、どんな時も持ったことのない感覚。
敵になってしまったあなたに、私はどうしたらよいのだろう。
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