翡翠の歌

番外 01 もやい




(1)



「マリア、大切な話があるの、おかけなさいな」


私はダーヴィトと共に促した。
先日二十になったばかりのマリアは、何?  またお説教かしら、という表情をして座った。


「・・・あなたの、本当のお母様とお父様のことよ」
「え? ・・・あの人のことはもう・・・」


きっと小さい頃、少しの間、引き取られた時のことを思い出したのだろう、立ち上がろうとした。


「待ちなさい。君ももう二十だ。ユリアは二十二で君を産んだ。きちんと知っておくべきだよ」


いつになく厳しい表情のダーヴィトに仕方なく座り直した。


「マリア・・・あなたのお母様はね、ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤ、今はマフカ・アレクサンドロヴナ・ユスーポワと言うの。私たちは・・・ユリアと呼んでいるわ。お父様はアレクセイ・ミハイロビッチ・ミハイロフ、ロシア人よ。ユリアと私は姉妹だけどお母様が違うの。幼い頃とても貧しくて苦労して、五、六歳の頃アーレンスマイヤ家に引き取られ、すぐに一人で外国に留学に出されて。やっとレーゲンスブルクに帰ってきたのは十四の時だった」
「じゃあ、ハ年も外国に?」
「そう、あちこちにね。それも私たちのお父様の仕事の都合だったの。そしてレーゲンスブルクにいる二年の間に、音楽学校でアレクセイに出会って恋をして。でも彼は国を追われて亡命中の革命家だった。帰国した彼をユリアは捜しにロシアに一人で密入国したのよ」
「一人で・・・まだ・・・子どもなのに?」
「そう・・・勿論レーゲンスブルクで、もしユリアが幸せだったなら彼を追って行かなかったかもしれないし、そこまで深い恋をしなかったかもしれないわ。でもね、あの頃のアーレンスマイヤ家は、呪われているって町の人たちに言われていたほどひどい状況だった」
「呪われて?」
「これから話すことは絶対に他の人にしては駄目よ、みんなの命がかかっているの。友達にも恋人にも、誰にもね」
「・・・わかりました」
「私たちのお父様はね、実は密かにドイツを裏切っていたロシアのスパイだったの。だから私たちもアメリカに移住しなくてはならなかったのだけれど。そのためにいろんな人に恨まれて、お父様もユリアのお母様も、小間使いのゲルトルートも音楽学校の校長先生も・・・私のピアノの先生も、ほかにも多くの人が死んでしまった。殺されたり自殺したり。私も事故や毒で殺されそうになった。ユリアも銃や刃の傷だらけだった、でも何故なのか話してくれなかった、一人で背負って抱え込んで」
「・・・」
「情けないことに私は全く知らなかったのだけど、ユリアはスパイの後継者として育てられていたの。ロシアの皇室と・・・いろんな秘密や死に深く関わっていた、僅か十四で・・・僅か十四で」
「マリア・・・大丈夫かい?」
「ええ、ごめんなさい。辛いのよ、あの子のことを思うとね。私は何も知らずに・・・ただ疎んじて」
「・・・じゃあ、ここからは僕が話そう・・・ユリアはもう耐えられなかったのだろう、十六の時、政情不安なロシアへ一人で偽造旅券を使ってアレクセイを追って行ったんだ、当てもなくね。ところが、ロシアの貴族、ユスーポフという軍人に捕らえられてしまい、皇室の秘密を知っているということで監禁されてしまった。そして愛人にされ四年を過ごしたんだ」
「愛人に?」
「そう。無論ユリアが望んだことじゃないよ、決してね。その頃、僕はイザークの世界ツアーについて行き、サンクト・ペテルブルクのサロン・コンサートで偶然ユリアに会った。その軍人にもね。ユリアはとても美しかった。大切にされているのはわかったが、とても悲しそうだった。あの黒髪の女性、ヴェーラ、覚えているかい?」
「ええ、レーゲンスブルクまで送ってくれた・・・」
「彼女はその軍人の妹だ。彼女によると、その後偶然が重なってユリアはアレクセイ・ミハイロフと再会して、二人で暮らし始めたんだ」
「偶然・・・」
「・・・そんな言葉では足りないかもしれないね。二人の愛の力、だろう。そして二年間暮らして、あと少しで君が生まれるという時に警察の取り締まりが二人に及んで、ユリアはあの軍人に助けられた。辛い話だが、聞いてくれ、マリア・・・。当時軍の幹部が反逆者の妻や子どもを見逃すことはできなかったはずだ、まして侯爵にとっては愛人を奪った男の子どもだ。でもね、マリア、侯爵は君を助けた、ユリアの子だから殺せなかったんだ」
「・・・」
「そしてこれは僕たちも後から知ったのだが、取り締まりの際負傷したユリアは君を産んだ後、生死の境を彷徨っていたそうだ。僕たちはヴェーラからユリアが僕らに君を育てて欲しいと頼んだと聞いたが、違ったんだ。取り上げられてしまったんだ。無論そうするしか君もユリアも生き延びることはできなかっただろうけど、ユリアが望んだことではないんだよ。そして熱が引いた後、彼女は記憶を失ってしまったんだ」
「え?  じゃあ私のこと、覚えていないの?」
「・・・おそらくは、神様が彼女を精神の崩壊から救う為に一時なされたことだろう、記憶のないまま侯爵の妻となり四年後に亡命した。その直後に侯爵の子を宿していることがわかったそうだ。そして陣痛で、君のこと、アレクセイのこと、何もかもを思い出したらしい」


*          *          *          *          *



(2)



「ロシアでもドイツでもどの国でもそうだが、大きな歴史のうねりの中では個人の力は無に等しい。そして正しさと正しさがぶつかった時、国は分解する。結局、ユスーポフ侯爵は帝政復活のクーデターに失敗し自決した。ユリアはヴェーラと共にフランスへ亡命して、そこで産んだ。君の妹のエヴァだ、同じ碧い目で金髪だそうだ・・・。そして記憶を取り戻し、君を呼び寄せたんだよ、あの時」


怖かった。
見ず知らずの女性にいきなり、あなたのお母様だと言われて連れられて行ってしまった。


「すまなかった、マリア。君には辛い思いをさせてしまった。君を預かる時、本当の両親のことは一切教えないでくれと言われたものだから。でもね、ロシアは今以上に動乱の最中だったんだ。ヴェーラたちも明日どうなるかわからない状況だったのだから仕方ない。それに君がアレクセイ・ミハイロフの子どもだと周囲に知られるのをとても恐れていた」
「どうして?」
「革命家を捕らえようとどの国にも、そうドイツにも、ロシア政府のスパイが入り込んでいたんだよ。もし真実が知られてしまえば、アレクセイをおびき寄せるため君を誘拐するだろうということだった。それほどまでに状況は緊迫していたんだ。ユリアは君が生きていたことを喜んで、そして自分が手放し、まして忘れていたことをひどく後悔していた、やむを得ない状況であったとわかってはいても、そうは割り切れないものだ。だから性急に君に求めてしまったんだ、娘であることを」
「マリア、ごめんなさい。私たちが悪かったわ。やはりユリアのことを幼い頃から伝えておくべきだった。でもあの頃はあなたを守ろうと必死で。わからなくなっていたの、そんな簡単なことが・・・。あなたとユリアを裂いたのは私だわ」
「違う!  お母様!  違うわ!  私のお母様は一人だけよ!」


本当に・・・本当に私のお父様とお母様はこのお二人なのよ。
優しく厳しく育ててくださった。
動乱のドイツでも、逃げるように辿り着いたこのサンフランシスコでも、私には不安な表情一つ見せないで守ってきてくださった。


「マリア、聞いてくれ。先日ユリアから会いたいと連絡があった、アレクセイ・ミハイロフも一緒に」
「え?」
「亡命したそうだ。彼は取り締まりの時にユリアも君も死んでしまったと思っていたらしいが、君が生きていることを知って、ぜひ会いたいと」
「でも、今更、私・・・」
「マリア、君にわかってくれと言っても無理かもしれない。だが二人は僕らの想像できないほどの辛い人生、他人や国に翻弄される人生を幼い時から歩んできた、歩まされてきたんだ。どうか最後に会ってあげてほしい」
「最後?」
「もう二度と会わないそうだ」
「え?  どうして?」
「それは・・・僕らにもわからない。ただ、ソビエトは今恐ろしい国になっている。各国に放たれたスパイによって元貴族や路線を異にした同志が次々と殺されていて、二人も命を狙われているらしい。ユスーポフ侯爵家は名門貴族で、アレクセイ・ミハイロフは名の知られた革命家だからね。君に会った後、また別の地に逃れるのだろう」
「・・・わかりました。お父様とお母様がそうお望みなら」
「ありがとう、マリア」


*          *          *          *          *



(3)



二人は部屋に入ってきた、静かに、まるで空気のように。
身の安全の為に日頃から気配を消すことに慣れているかのようだった。
ユリアは金髪をブルネットの鬘に隠し、クラウスは黒髪に染めて。

ユリアとマリア・バルバラ、クラウスと僕は互いに抱き合い、無言のまましばらく・・・生きていることを確かめ合った。

ユリアとは十五年、クラウスとは実に四半世紀ぶりだ。
お互い、年をとったな。
そして、ユリアは相変わらず美しい。
二十年を隔て再会したクラウスに寄り添い、本当にお似合いだ。
レーゲンスブルクで二人の人生が重なったのは僅か一年だった。
それでもまるで前世からの約束のように二人は強く引き合い、激動のロシアで結ばれた。
たった二年で再び運命は引き裂いたが、最後に愛の力は窓に勝ったのだ。





そして・・・マリアを招き入れた。

二人はじっと彼女を見つめ、お互いの手を固く握り合った。
堪らなくなったユリアはクラウスの胸に顔を埋め、声を殺して泣いていた。
そんなユリアの背を撫でながら、クラウスの瞳もまた潤んでいた。

そして、クラウスは僕たちへの礼を口にした、それこそ心の底から絞り出すようにして。


かつて、妻とお腹の子を失ったと思った、自分は二人の為に何もできなかった
それからも、ただがむしゃらに国に人生を捧げ、そしてその国を追われ何もかも失ったと思っていたのに、マリアが僕たちに守られて育っていた、こんなに美しく
まるであの頃のユリアそっくりだ
これからも何もできないが、マリアを頼む・・・


この時僕たちは、彼の"これからも何もできない"という言葉の本当の意味を知らなかった、すでに決めていた覚悟を。





マリアは経験したことのない雰囲気に気圧されて立ち尽くしていたが、僕たちに促されて二人に歩み寄り、抱擁を受けた。
そしてバイオリンを・・・数奇な運命を経て"生き延びて"きたバイオリンを受け取ったクラウスは、静かに撫でた後・・・再びマリアに渡した、強い眼差しと共に。


「元気で・・・」
「幸せになって・・・」


二人はこう言うと、椅子にかけることもなく別れの言葉を継いだ。


「もう行くのか?  せめて食事でも・・・」
「いや、悪いな、そうしたいのはやまやまなんだが、早く戻らないと怪しまれるんだ」
「誰に?」
「・・・ダーヴィト、これから少しゴタゴタするがマリアをよろしく頼む。どんなことが起きてもそれは皆、マリアと、マリアの妹のエヴァのためだ、それだけは信じてくれ」


何か、このままでは済まない予感がした、確かな、そして嫌な予感が。
だが、これ以上は聞いても無駄だろう。


「大丈夫だ、お前を信じているよ、お前とユリアを、何があっても」


何があっても・・・。

しかしそれは、僕たちの想像を超えていた。
まさかその二週間後、お前がユリアを凌辱した犯人として彼女に射殺され、彼女も自害する、そんなことになろうとは。


*          *          *          *          *



世間の騒動がようやく落ち着いた頃、僕は密かにヴェーラに会って真実を知った。

クラウスは実は亡命ではなく、ユリアを処刑の為に強制送還する密命を帯びてきたこと、さもないとエヴァを殺すと脅されていたこと。
ソビエト政府に打撃を与えて、関心をそらす為に、アメリカ全土に反共運動を巻き起こす計画を立て、元侯爵夫人とソビエトスパイの凌辱事件を演じたこと。

エヴァやヴェーラを・・・引いてはマリアを・・・ソビエト政府の標的から外すために、クラウスは命と名誉を捨てた。
かつて、ユスーポフ侯爵がマリアを救ったことへの報恩・・・。

初めて会ったエヴァはマリア、そしてユリアそっくりだった。
金髪や碧い瞳はなかなか受け継がれないと聞くが、神のせめての憐れみだろうか。

そうして、マリアにもこの話をした。
父が母を凌辱し、母が父を殺して自殺したなど、このままでは余りに惨すぎるから。


*          *          *          *          *



後悔ばかり。
ふとした拍子に思わず涙がこぼれる。

あのバイオリン・・・デビューする少し前にお父様からいただいた。
誰もが知る名器。
嬉しかった。
何故かすぐに手に馴染み、思い通りの音を奏でてくれた。
でもそれ以上考えることはなかった、その由来などを。
お父様が子どもの頃バイオリンを弾いていらしたからって思っていた。
まさか・・・本当のお父様の・・・伯父様の楽器だったなんて。

亡命の時、唯一持ち出した伯父様の形見。
それをお母様に会う為に手放して・・・偶然見つけてお母様に。
そしてロシアへ・・・きっとそれからもいろいろとあったのだろう、ロシアの女性バイオリニストの手に渡って、それがヴァイスハイト先生に。

ああ!  なぜあの時、もっと強く抱き締め返さなかったのだろうか。
二人は強く強く息が詰まるほど抱き締めてくれたのに。
なぜお母様と・・・お父様と・・・呼ばなかったのだろう!!
あの二人を厭う理由など資格など私にはなかったのに。
私がこうして生きているのは、あのお母様とお父様がいてくれたからこそ、想っていてくれたからこそなのに。
そしてお母様への愛が深かったから、侯爵は私を助けてくれたのに。
それほどまでに二人の男性、敵同士の男性に愛された素晴らしいお母様の私への愛を疑っていたなんて、疎んじていたなんて。
ごめんなさい・・・お母様・・・お父様。


*          *          *          *          *



半年ほどしてマーサと名乗る女性から渡された、ゲオルグス・ターラーと墓地名がタイプされた紙片・・・。
郊外の・・・クラウス・ゾンマーシュミットと刻まれた小さな墓。
傍らには、背丈ほどの苗が植えられていた・・・。
やがて大きくなって、春には沢山の黄色い花を咲かせるだろう、夜目にも鮮やかな・・・。



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