翡翠の歌

12 身を潜めて




(1)



・・・彼女からの申し出だったの? 
それとも・・・あなたが・・・頼んだの?
正式な結婚・・・正妻・・・せめて・・・堕落した私がせめて求めていたもの・・・叶うはずもない。

でも・・彼女だって・・・御命令で結婚して、御命令で離婚して・・・。
最後に・・・赦しあった・・・のよね? きっと。

嬉しい・・・そして、羨ましい。
あの夜、彼女はあなたの役に立ったのね、命を賭けて。
私は・・・エヴァを守ることで・・・あなたの役に立つ・・・命を賭けて。


*     *     *     *     *



あれから・・・ロシアを出てからもう十年になる。
エヴァは学校に通い始めた。

ずっと家庭教師だけの教育にしようとも考えたけれど、これからの時代、そしてこのアメリカでは学校が不可欠だろう。
危険を承知の上で入れたが、外の世界を知ることで表情も豊かになってきた。
送迎は私がして、教師やクラスメイトの身上調査も念には念を入れている。


各地に身を潜めている同胞からの知らせでは、相変わらず貴族狩りが続いているという。
悍ましいことに、正教会からの呼びかけで帰国した人たちと連絡が取れなくなっているらしい・・・異国で心細くなっている人が、不問に付すからという約束を信じて。


今のところ身近に革命政府の気配は感じられない。
でもそれはとても巧みに隠されているだけなのかもしれない。

皇族方や親戚筋の公爵家はもちろん、名門中の名門であるユスーポフ侯爵家を彼らが後回しにしたり、まして見逃すはずがない。

革命家たちを厳しく取り締まり弾圧し、クーデターまで企てたレオニード。

そして侯爵家の財産を持ち出した、その家族を彼らが許し、忘れる理由はない。
妹のヴェーラ、妻の私、娘の・・・跡継ぎのエヴァ・・・。





マリア。
あなたも複雑な立場だわ、私の子どもと知られたら・・・。


個人の伝手を使った程度では、アレクセイの消息は一向に掴めなかった。
アメリカ政府に頼れば可能かもしれないけれど、それは逆に彼らに弱みを握られることになる。

アレクセイ・・・。
あなたは生きているの?
今、どうしているの?
氷の国で・・・。


生きているのなら・・・きっと・・・私の・・・敵・・・ね。
諜報機関に配属されて、知らないうちに自分の娘を殺すなんてこと!
お願い・・・あの手紙を使わなかったレオニードの想いが・・・伝わってほしい。

いえ、大丈夫、大丈夫よ。
マリアのことは・・・知られていない。
レオニードは出産や出国に際して何の記録も残していないはずだし、お姉様は孤児を養子にしたことになっているし、手紙のやりとりすらしていないもの・・・辛いけれど、あなたのために。

もうあの子も十二ね。
私がサンクト・ペテルブルクに留学したのと同じ年だわ。
あんな思いをせずに生きてほしい、お姉様とダービィトとに守られて。


*     *     *     *     *



(2)



あれから・・・各地で、皇族の生き残り、特にアナスタシア皇女殿下を称する者が何人もいる。
あさましいこと。

生きていらっしゃるって。
イギリス政府やドイツ政府が亡命の条件で交渉しているらしいって。

本物だったら・・・もしかしたら最期に皇帝陛下から隠し財産のことを聞いているかも知れない。
いいえ、大丈夫。
革命政府がそんなヘマをするわけがない・・・徹底して殺したはず。





アナスタシア。

彼のこと、いろいろと教えてくれた。
私は何も話さなかったけれど、あなたの言葉からは彼への穏やかで熱い想いが伝わってきたわ。
それが高じて同じ思想を信奉したの?

革命の黎明期から活動の先鋒を務め、下支えしてきたのは貴族たちだった。。
皆がレオニードのように陛下に忠誠を誓っていれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに。

皇帝派にもいろんな人がいた。
わずかな無私の人、多くの私利私欲だけの人。
それは革命派も同じ。
ただ、あの時代には権力がなかっただけ。
それを得てしまえば、今度は、皇帝派と同じことをしている。
革命派が永遠に革新的だなんて幻想。


何もしていないのにヴェーラは結局、皆に裏切られた。
エフレムにもアナスタシアにも、そしてリュドミールにも・・・革命に絡め取られてしまった。
アレクセイやアナスタシアの家族だって・・・彼らのためにどれほど辛い思いをしただろう。
その挙句が、今のあの国、なの?
あれが、あなたたちの成果、なの?


*     *     *     *     *



(3)



マーサは諜報部員・・・私担当の・・・。
彼女は大丈夫。

でも、彼女の上司に、革命政府の協力者がいる。
提供している共産主義者の情報が漏れているように思える。
このところ逃げられることが多くなった。

彼、もしくは彼女は・・・機が熟したら私やヴェーラを捉えるだろう、エヴァも・・・。

どうにかして、炙り出せないだろうか。
偽の情報を流そうか。
何が使える?
侯爵家の財産?
ドイツ諜報部?


*     *     *     *     *



手紙が・・・届いた。
でもこれは・・・郵送ではない・・・郵便受けに直接入れられたもの。
アメリカの切手にイギリスの消印なんて。

中には・・・ニューヨーク・カーネギーホールのコンサートのチケットが一枚だけ。

誰が、何のために・・・。

罠?

でも、こんなわかりやすい罠・・・あり得ない・・・と思うけれど・・・それを逆手に取っているのだろうか?
そっと切手を剥がしてみる。薄く小さな文字が・・・。


"ナマエコウ"





尾行されている。

何度も地下鉄を乗り換えて、開幕直前にホールに入った。
ボックスシート・・・先客が一人、私の席のすぐ後ろに。
やがて交響曲がクライマックスを迎えると・・・少しだけ顔を近づけ、小声で話し始めた。


『誘拐計画が進んでいます。来週の水曜、ボストン出港のカレー行き貨物船の荷物に監禁して帰国させる手はずです。私には止めることができませんでした。すぐにアメリカ政府に保護を求めてください』
『そこに協力者がいるのです』
『・・・第二調査部のコナー課長です』
『ありがとう』
『これを・・・ヴェーラ様に。弟君のご遺髪です』
『あなたが・・・殺ったの?』
『薬を飲ませて差し上げました。拷問で苦しんでおられましたので』
『ありがとう、感謝します。あなたは、帰るの?  あの国へ』
『はい、それでも祖国ですから』
『気をつけてくださいね。ありがとう』


顔をあわせることなく、幕間の人ごみに紛れ、彼は出て行った。





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