10 虚実
(1)
「来週、彼とニューヨークに行きたいの。許してもらえるかしら?」
「? ええ、もちろん、どうぞ。なぜ私の?」
「・・・じゃあ、彼は合格、なのね?」
「・・・」
「身辺調査、したでしょう?」
「・・・わかっていたなら、聞かないで」
「今度からは私に断って頂戴」
「・・・」
「?」
「エヴァの友達も、近所の住人も出入りの商人も、全て調べていること、知っているでしょう?」
「私が知り合った人よ。疑うほうがおかしいわ」
「偶然を装って知り合いになる、彼らの常套手段よ」
"エフレムとは違うわ"
思わずその言葉を飲み込んだ。
彼女をどんなに傷つけるか、十分過ぎるほど知っていたから。
「そうね、本当に。気がつかなかった私が悪かったわ」
「ヴェーラ・・・。謝ることなんてない。そうね、私こそ伝えるべきだった、ごめんなさい。でも何だか悪くて。あなたがあんまり幸せそうだから」
「・・・」
「ねえ、聞いて・・・。私が子どもの頃、父の腹心の部下に連れられていろんな国に留学していたのは知っているでしょう? 本当にやさしい夫婦で、お母様と別れて淋しかったけどそれだけは救いだった。ロシアを出て、あなたと別れて彼らとスイスに向かった。でも、別れ際レオニードは、彼を信用するなって言っていたの。よく意味が分からなかったけれど、偽物のほうの鍵を引き出した。その夜、彼は私に薬を盛ってその鍵を奪い取った。そして私を凌辱した」
息を飲んだ。
「彼はね、二十年かけてやっと夢が叶ったって。莫大な隠し財産と私を奪うことができて。最初からの計画だったって」
言葉が出なかった。
「彼は言ったわ、裏切りだの信頼だのという言葉は戯言だって。そんな汚い世界なの。守りたいの、あなたやエヴァを。許して頂戴」
私はただ抱き締めるしかなかった。
そんな汚い世界に生きることをあなたが望んだわけではないのに・・・。
* * * * *
(2)
ごめんなさい、ヴェーラ。
欺いている・・・私、あなたを。
伯爵のこと、言えない、本当は。
私にはそんな資格、ない。
もう終わったはずだった。
私から望んで始まったことではなかったのだから。
鍵を渡して、それで終わりにしたはずだった。
それなのに・・・。
危険と知りながらも、あれこれと理由をつけては、幾度もパリに行っている。
彼に、会いに・・・抱かれに。
安心するの、あの匂い、あの力に・・・。
葉巻と、お酒と、硝煙と、皮と・・・。
レオニードと同じ、そしてお父様と、あの伯爵と・・・こんなに嫌悪し、軽蔑しているのに。
でも、そんなこと、都合のいい言い訳。
あれほど拒絶した"愛人"に、今は自分からなっている。
* * * * *
ヴェーラの帰宅後、しばらくして彼から知らせがあり、再びパリへ渡った。
より増した危険のため、彼も人目の多い中心街に移り住んだ。
「何ですって、ミハエルが?」
「そうなのだ。皇太后様がお認めになり、先日継承したらしい」
「皇太后様に・・・そんな権限が?」
「私も憤慨している。だが、皇帝陛下の御世に跡継ぎとして認可されておるからな。私だとしても認めざるを得まい。もっともその申し出はそなたと結婚する前だったと聞き及んでおるが」
ミハエル。
まさかあなたが後継者だったなんて。
だから・・・あの時、会わせたのね。
*
慌ただしく弁護士が訪ねてきた。
財産のある亡命貴族の周りにたかっている彼ら。
いろいろと焚き付けては報酬を受け取っている。
「財産を?」
「はい、侯爵閣下は侯爵家の財産をお返しになるよう望まれています。勿論、多少は前夫人への慈悲の配慮もされるでしょう」
「・・・突然のことで考えがまとまりませんの。少しお時間を頂き、それからお返事いたしますわ」
*
「よいのか、それで」
「・・・財産は・・・いいの。ミハエルはまだ知らないのでしょうけれど、ほとんどが亡命前から私とヴェーラの名義だもの、レオニードがそうしてくれていたの。それに秘密の口座も幾つもあるし。だから彼が期待しているほど、とてもないと思うのよ。きっと怒るでしょうね。でも・・・レオニードとヴェーラが守ってきた侯爵家を・・・私との結婚が何の役にも立たなかったのが悔しいわ」
*
「では、お返しいただけるのですね?」
「ええ、レオニードが認めていた方ですもの、妻である私に異存はありませんわ。お会いしてお返ししましょう。そうね、少し前にボストン郊外の湖のほとりに別荘を手に入れましたの。それは静かでリドガのよう。そこにぜひ侯爵をご招待したいわ。きっと懐かしんでいただけると思いますもの。継承のお祝いもまだですしね」
「閣下にアメリカまで、とおっしゃるのですか?」
「ええ。昔語りをして穏やかにお渡ししたいわ。侯爵もそれをお望みでしょうし、従兄の妻が・・・先代の侯爵の妻がお招きしても・・・そうおかしなことでもないでしょう? 口座はアメリカにあるのですしね。そう、お気に召したら、その別荘も差し上げますわ」
裏で革命政府と繋がっているかもしれないのに、のこのこと彼のところになど行けるものですか。
* * * * *
「マフカ。良かった。元気そうだ」
「あなたも、ミハエル。カレンもお元気?」
「まあ・・・ね。アレクサンドラも・・・引き取った」
「そう良かった。随分久しぶりだからいろいろと大変でしょうね」
「・・・そのようだ・・・十五年は・・・長過ぎた」
「・・・さあ、お祝いの席を設けましたの。使用人は帰らせましたから、静かに二人きりで」
*
「これっぽっちとは、な。やけにあっさりと認めたと思ったのだ。レオニードも案外こういうことに敏かったというわけか、自分の女の為には。まったく、あの時の失敗が悔やまれる。あと一発でも命中していれば」
「・・・!?」
「・・・」
「あなた、まさか?」
「我々一族の為にやったことだ。侯爵家にとって非常にまずかったのだ、彼の振る舞いは。とんだ当主だった」
「何ですって? レオニードは陛下の御為に、ロシア帝国の為に」
「我を通すことがか?」
「信念を通したのよ! 侯爵として陛下の御為に!」
「・・・陛下? 何が陛下だ! 姉上がどうなったか知ってもそんなことを言えるか? 引き取ったアレクサンドラは結局心を開かず、弱っていたところに流行り病で死んでしまったんだ! 姉上は後を追った! あんな財産の為に!」
「アレクサンドラが? カレンが?」
知らなかった。
醜聞を恐れ、隠し財産のことが表沙汰になることを恐れ、何一つ公表しなかったとのことだった。
「だが、まあ、はっきり言って、今の私には侯爵家の財産の多寡などどうでもよいのだ。我々が失ったものの償いをレオニードにさせるだけだからな」
「何ということを! 敢えて時代の流れに逆らって、欲得に阿ねないで、命を賭けて侯爵家の名誉を守ったレオニードを侮辱して!」
「名誉など侯爵家があってこそのものだ! 我々の不幸は当主としての資質を備えていなかったレオニードが原因だ!」
「あなたは何をしたの? ロシアの為に、陛下の御為に、何を!? ただ安寧を、保身を図っただけでしょう! 貴族としての義務も果たさずに!」
「黙れ! 侯爵に対してその口のきき方は何だ!」
「・・・ミハエル・・・あなた、話をすり替えているわ」
「何だと?」
「カレンのこと・・・残念だけれど・・・辛さは私にもわかる。私の娘も・・・そうだったから」
「? 君にはエヴァがいるだろう」
「もう一人の・・・娘よ」
「?」
「ねえ・・・今頃・・・あなたの継承は無効と裁定されているわ」
「なっ? 何だと? おかしなことを言うな! 皇太后様が認めたことだ! 例えキリル大公がどう動いても・・・」
「そうね、大公殿下にはどうしようもないわね。でもね、アデール様が皇太后さまにある事実をお伝えくださったの・・・私も初耳だったことを」
「?」
「以前、陛下に、私との結婚を正式なものとしてお認めになるよう、頼んでくださったこと。そしてね・・・将来生まれた子が男でも女でも継げるよう認めてくださるようにと。他ならぬアデール様の懇願だったし、それにね・・・鍵を守る者が不甲斐なくては陛下もお困りでしょうからね。あなたの評判は陛下にも届いていたんじゃないの? 結婚もしないで勝手気ままな風来坊のあなたに、ご自分たちの財産を任せられるかどうか、さぞご不安だったでしょうね」
「なっ・・・」
「お分かりでしょう? あなたの継承権は失われていたの、とっくにね。隠し財産で皇太后様の歓心をかったのでしょうけれど、遥か前の元老院の、しかも手元にない記録より、おそばの孫の言葉のほうを信じられるのではないかしら? それに・・・あなた、本当に全てをお渡ししたの?」
「・・・」
*
絶望しての・・・自害ということに。
せめて・・・名誉は守ってあげる・・・カレンとアレクサンドラのために。
早く誰かが見つけてくれるといいわね、朽ち果てる前に。
でも、苦しかったわね、この薬はね・・・久しぶりに見る血の海・・・冬薔薇の鮮やかさには劣るけれど。
本当に・・・ウォッカは毒を飲ませるには最適。
放り込んで・・・さようなら、よ。
迂闊に物を口にしないこと・・・特に利害が一致しない相手の前ではね。
まあ酒好きには我慢できないわよね・・・故国の酒を目の前にしては。
相変わらず口が軽いのが悪いのよ。
けしかけた私も悪いけれどね。
知らなければ・・・あの時の首謀者があなたと知らなければ・・・。
そして・・・私たちの人生を冒涜しなければ・・・。
侯爵の称号を失うだけで済ませてもよかったのに。
帝政が終わったのに・・・侯爵家の継承なんておかしいわ。
貴族の身分は皇帝陛下が君臨されていてはじめて成り立つもの。
名誉も侯爵家があってこそ・・・あなたの話にも一理ある。
でもね、領地がなくなっても、宮殿がなくなっても・・・貴族に生まれたからには最期まで貴族なのよ。
そしてその反対もある、あなたのように・・・そうあろうとしなければ・・・。
レオニードは名誉を失ってでも私を守ろうとしてくれた・・・それは・・・別の、もっと大きな名誉を守るためよ。
だから・・・侯爵家の最期を穢すなんて絶対に許さない。
*
「これでいい。さあ、帰りましょう、レーナ」
「はい、奥様」
別棟で料理と酒をあてがっておいた弁護士と従僕をミハエルの銃で始末し、彼の名義の別荘を後にした。
有能な子・・・子って変ね、少ししか違わない、もう大人なのに。
故郷を捨て、修羅場をくぐり抜けてきた今、もう、血や銃声で取り乱したりなどしない。
私もいろいろと教えている・・・いずれ、エヴァやヴェーラを守ってくれるように。
↑画像をクリック