翡翠の歌

04 思い出が思い出になる時




(1)



夢を見た・・・幸せな思い出の夢・・・。





春のある日、舞踏会に行った。
キリル大公殿下主催の、ごく限られた方々が招待された・・・。

多くの皇族方の中で最も先見の明のある進歩的な方らしい。
御結婚相手が皇后陛下の不仲な元義姉であったことが災いして、御不興をかって長年遠ざけられていらしたと聞いた。
そして、左遷されたレオニードを重用して大本営付きに取り立ててくださった。

それなので、せっかくのご招待をお断りするわけにもいかず私を伴って出かけた。





その数日前、久しぶりに外に出ること、そして見知らぬ大勢の人に会うことに気乗りがしない私にあなたはこう言った。


「いつもの通りに振舞っていればよい。今回の出席者の中でお前より身分の高い者は、大公ご夫妻とシェリホフ公爵ご夫妻だけだ。他の者には気が向かなければ話す必要もない」
「・・・でも・・・そういうわけにも・・・」
「大丈夫だ・・・私から離れずにおれば。それに時折、外に出たほうが、体によいだろうからな。そうだ、お前の言う"いい奥様"にこの一晩でなれるかもしれんぞ」


ドレスは新たに誂える必要などなかった。
だって、仕立ててもらっていたのに、これまで出番のなかったものが山ほどあったから。
その中からターコイズブルーのを選び、レオニードから贈られた、これも沢山の宝石の中からその色に合うルビーを選んだ。


「結い上げられますか?」
「そうね、皆様はどうされているの?」
「最近はまた高く結われるのが流行のようですよ」
「それなら皆様と同じほうがいいわね、きっと」


鏡に映った私の姿・・・アンナやレーナはとても褒めてくれた、会場中の注目の的ですわって。
でも、何か変・・・この・・・姿、見慣れない・・・。

階下で待っていたレオニードが手を取って、綺麗だって言ってくれた。
嬉しい・・・あなたが見てくれれば、それだけでいいのに・・・やっぱり、私・・・。
今更!  と強引に馬車に乗せられた。

不穏な社会情勢下の、しかも限られた人たちだけと聞いていたのだけれど、さすが大公殿下主催の舞踏会・・・沢山の着飾った貴族が集まっていた。
こんな大きな集まり、私、初めて。
私たちの到着が伝えられると皆振り向き、さっと道が開けられた。
お屋敷にだけいたのではわからないけれど、やはりユスーポフ侯爵家は名門なのね。

きっと宮廷よりはレオニードに好意的な人たちが多いのだろう、皆、代わる代わる挨拶に来た。
彼は、彼としてはにこやかに、それぞれにそつなく応えていた。
私はと言うと彼に身を寄せて固くなって下を向いていた、やっぱり来なければよかった、私、場違い・・・大勢の人の声と香水の匂いにめまいがしてきた。

そんな私を支えて身を屈め、大丈夫か?  と気遣いながらもまっすぐに進み、あるご夫妻の前に立った。


「公爵、奥様、ご挨拶申し上げます、これは妻のマフカです、是非ともお見知り置きを」


レオニードが挨拶した彼らは少し年配で、腰を屈めて挨拶した私に優しく声をかけてくれた。


「おお、侯爵、このような美しい奥方を隠しておくなど罪というものではないか?」
「本当にお美しい、今度、宮廷にもいらっしゃいな」


美しいって言われるのはそれは勿論嬉しいけれど、本当かしら?
私、何だか他の女性たちと違う。
これで・・・いいの?

レオニードは更に進み、大勢の人たちに囲まれているお二人に近づいた、大公ご夫妻だ。
私はますます身を固くして屈め、レオニードがご挨拶申し上げるのを聞いていた。
大公殿下は何となく、遠い記憶のお父様に似ていらっしゃる!
とても失礼なことだけれど、そう思うと少し気持ちが和らいだ、その時は。


*     *     *     *     *



壁際の長椅子に二人で腰掛け、カドリールを踊り始めた人々を眺めていた。


「ごめんなさい、一人で大丈夫・・・大丈夫だからあなたは皆様と・・・」
「よいのだ、もう挨拶も済ませた、いつ帰っても構わぬ」
「・・・レオニード!  あなた、変なの!」
「何が変だ?」
「だって・・・あなた、貴族でしょう?  貴族ってもっと・・・」
「お前も貴族の娘だろう、由緒ある・・・」
「でも私は妾の・・・」
「よくあることだ」
「・・・でも私、こういう世界はあまり向いていないみたい・・・普通の、普通の生活が・・・」
「普通の?」
「そう、お料理したりお掃除したり・・・今の私にはできそうにないけれど」


レオニードは声を立てて笑った。


「お前がそのようなことをしている姿なぞ想像もつかんな!  お前に包丁を持たせたら手が血だらけになるぞ」
「ひどい!」


*     *     *     *     *



お前・・・そうやって暮らしていたのだろう?  あの男と。
奴の為に慣れぬ家事をし・・・生来の努力家のお前だ、ほどなく上達したに違いない。
そして、無事に帰ってくるかもわからぬあいつを待ち続け、戸口で抱き締めたのだろう?
活動家共の為に翻訳の作業をしていたとか。
楽しかったか?  世界を共有して。


*     *     *     *     *



「一曲、踊らぬか?」
「え?」
「一曲だけ・・・」


考えたこともなかった、何故か・・・レオニードと踊るなんて。
でも、そうよね、ここは舞踏会なのだし・・・。


「でも久しぶり、本当に。それに私、多分、舞踏会で踊った覚えがない、練習は伯爵と沢山したけれど・・・。初めて、よね?  あなたと踊るのって・・・」
「そうだな・・・私も久しぶりだ。よいだろう?  下手同士で」


ワルツが始まる。
レオニードは私の手を取りフロアの中央まで連れて出た。


「レオニード!  こんな真ん中で、私、下手なのに!」
「気にすることはない、誰もそのようなことを言いはせぬ、私たちに対して・・・」


あなた、本当に自信家ね・・・ユスーポフ侯爵家というものへの揺るぎない自信。
私には永遠に無縁のような気がする。





ああ、でも!!
嘘つき!  隠れて練習していたんじゃないの?
レオニードのリードで私は踊った、本当に何も考えずに、次のステップも次のステップも、彼に従えば自然に踏み出せた。
途中から衆目を集めているのを感じ、踊り終わって息を弾ませて彼の胸に倒れこむと予期せぬ拍手を浴びた。

当然のように一曲では終わらなかった、少なくとも五曲は踊っただろうか、さすがにふらついて朦朧としてしまったので、殿下が用意してくださった控え室でしばらく休んだ。
彼は・・・とてもにこやかだった・・・それを見て私も嬉しくなった。


「疲れさせてしまったな、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ・・・気にしないで、楽しかったから」


*     *     *     *     *



どこかに飛んで行ってしまいそうだった。
瞳はずっと私を見ていたがステップは外へ外へと向かって行った。
ルール違反だぞ。
慌てて手を掴みなおそうとすると、すり抜けて躱して、またその先へ、蝶のように・・・お前・・・。


*     *     *     *     *



それからサロンに招かれ、レオニードが殿下や男性と話している間、私は妃殿下たち女性の席で質問責めにあっていた。
社交界で新参者の私は格好の話題提供者らしい。


「どちらのご出身?」
「・・・ウクライナです」
「ご両親は?」
「・・・貴族でしたが、もう亡くなりました」


「どうしてユスーポフ侯爵とお知り合いに?」
「・・・ええと・・・散歩していた時、出会ったのです」
「まあ、なんてロマンチック! このペテルブルクで?」
「・・・はい、ネヴァ川のほとりで」


「普段はお二人でどんなお話をなさっているの?」
「・・・特に・・・決まっては・・・」
「ね、侯爵ってちょっと怖くない?」
「・・・それほど・・・では・・・」


「踊りがお上手なのね、思わず見とれてしまったわ。どちらで習われたの?」
「・・・ええと・・・フランスで」
「まあ、留学されていたのね?」
「・・・はい・・・音楽の・・・」
「楽器は何を?」
「・・・ピアノ・・・です」





なぜか演奏することになってしまった。
妃殿下が是非に、と言われるので断り切れなかった。


「何をお弾きしましょうか?」
「そうね、リストやショパンが好きよ、もし出来たら・・・」
「では、ショパンの華麗なる大円舞曲を・・・」


失礼があってはと音楽室で少し指をならしてから、勇気を振り絞ってサロンに戻った。


二曲目は、リストの愛の詩を献じた。

とても褒めてくださった。
ちらっと見たらレオニードも満足そうにしている・・・よかった・・・。
でももう、肩と腕が痛くて・・・。





帰邸し、長椅子に寄り添って座り、レオニードに肩や腕をさすってもらうと本当に楽になる・・・魔法の手ね。


「ねえ、この傷、どうしたのかしら、私は?」
「・・・私にもわからぬ。結婚した時にはすでにあった」
「そう、それなら十四、五の頃よね、ドイツに帰っていた時・・・何があったのかしら、ドイツで・・・ほんの少ししかいなかったのに」
「・・・よいではないか。傷は残ったが、助かったのだから」
「そうね。でも、この、鞭の跡のようなものは?」
「・・・わからぬ、な」
「本当に、まるで戦場にでも行ったみたい」


*     *     *     *     *



(2)



こんな幸せな夢は久しぶりに見た、亡命してから・・・。
でもそれはその後の報せの・・・残酷な前触れだったのかもしれない。

新聞に・・・半月ほど前の情報が載っていた、クーデター失敗の・・・そしてそれに続くケレンスキー政権の崩壊と革命政府樹立が大きく取り上げられていた・・・。

・・・首謀者のコロニロフ将軍とユスーポフ侯爵が自決した、と。

でもロシアは歴史の大きなうねりの中にあって、クーデターの詳報も続報ももう何も齎されなかった。
レオニードがどんな志で企て、どんな覚悟で陛下に奉じたのか、歴史は一顧だにしなかった。

ああ、レオニード! レオニード!
あなた!  あなた!  一人で逝ってしまった!

覚悟していたこととはいえ、涙が止まらない・・・。


「あんまり思い詰めると、赤ちゃんによくないわ・・・」
「ヴェーラ、いつも優しくしてくれてありがとう、あなたこそ、どれほど辛いか・・・」





悲しみに沈むある日、思いがけない訪問があった。
カレンが亡命する途中に立ち寄ってくれた。

男の子ならルスラン、女の子ならエヴァ!

どんな想いで考えてくれたの?
喜んで・・・喜んでくれたのね?
レオニード!

よかった、知らせることができて・・・間に合って・・・。

守ります、必ず、この子を・・・あなたの子を。





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