16 援けられて
アパートメントで毛布に包まりながらラジオを聴いた・・・バイオリン協奏曲、サンフランシスコ交響楽団の。
ぜひに、と放送時刻に合わせてわざわざユリアが訪れ、じっと二人で聴いていた。
マリア・ラッセンというソリストだ。
いい音だ。
女性らしいが奔放で、どこか寂し気で深みがある。
俺が捨てた別の人生・・・いや、俺だけじゃない、みんな、何かを捨ててきた。
*
その後、公園を散策しながら、思いもかけないことをユリアは話し出した・・・敢えて俺からは触れていなかった・・・あのことについて。
「子どもが? 子どもが生きているのか?」
「そう、無事に生まれたの。女の子。マリアっていうの」
「・・・」
「信じられないでしょう? あの一斉摘発の時、アパートにレオニードの部下が連れ出しに来たの。私、書類を燃やして自殺しようとしたのだけれど、彼が私の腕を撃つのが少しだけ早くて、負傷しただけで助かった。侯爵邸に運び込まれて、それからひと月後に生まれたの」
「あいつは? 奴が見逃したというのか? 子どものことを」
「・・・そう。レオニードは助けてくれたの、迷ったと思うけれど、助けてくれた」
「あいつが、俺たちの・・・」
「私、その頃から覚えていないの。ヴェーラの話だと傷が悪化して熱も高くて、ずっと薬を飲まされて。十四からの・・・レーゲンスブルクの記憶もなくなってしまったのですって」
「記憶が?」
「だからこれは後からヴェーラに聞いた話なのだけれど、レオニードはヴェーラに言って、赤ちゃんを私のお姉様に預けたの、レーゲンスブルクのね」
「お前の姉さんに?」
「ドイツから移って、今はサンフランシスコに住んでいる」
「サンフランシスコ、お前の姉さんと一緒に?」
「そう、お姉様の養子になっているの。預ける時に身元を隠すためにヴェーラが頼んだの。本当の親のことは一切秘密にしてほしいって」
「そうか」
「私、亡命してエヴァを産んだ時、記憶が戻って、あの子のことをヴェーラから聞き出した。それでね・・・本当はね・・・あの子が十歳の頃、一度引き取ったことがあったの。でもね、だめだった。あの子、怖がっちゃって。私もどうしていいかわからなくて・・・ぶってしまった・・・」
張ってる奴らの手前か、お前は何とか平静を保とうとしているが泣き出してしまいそうだ。
咄嗟に口づけした、長い長い口づけを。
大丈夫か?
ええ、大丈夫
「それでね、それでそのままお姉様の養子として育ててもらうことにしたの、ごめんなさい、役に立たない母親で・・・」
「何を言う、お前は精一杯やったろう? だから子どもが生きているんだろう? 俺こそ何も知らず何もしないでお前だけに任せてしまった。許してくれ」
「アレクセイ・・・」
*
暫く、無言で歩いた。
子ども・・・。
女の子・・・。
俺の、子ども・・・マリア・・・いい名だ。
何もかも失ったと思っていた俺の人生が、急に輝き出した。
ユリアもマリアも生きていてくれた・・・悔しいが、あの男のお陰で。
感謝する、レオニード・ユスーポフ侯爵・・・迷っただろうが悩んだだろうが、救ってくれた。
あんたの深い想いに、あんたの真実の愛に、心から感謝する。
敵同士だったが・・・命をかけて闘ったが・・・その結果が今のあの祖国だとは・・・。
散っていったあんたたちに申し訳ない。
「マリアはね、金髪で碧い目なの、あなたに似てなくて・・・。でも性格はあなた似よ、ひどく気が強いらしいから。反抗期は大変だったと思う」
「それもお前似だろう?」
「え? そんなことない、私はおとなしくて聞き分けのいい、いい子だったもの。あなたが相当なやんちゃ坊主だったって、ヴェーラに聞いてちゃんと知っているんだから! 随分とアナスタシアやおばあさまに迷惑をかけたらしいじゃない!」
「・・・お前、本当に自覚ないのか?」
「え? 何が?」
「呆れたもんだぜ、まったく」
どんな女性に育っているのだろうか。
本当に外見も性格もユリアそっくりならば、嬉しいような恐いような、だな。
「万が一にもマリアが私たちの子どもだって知られるといけないから、それからは一度も会っていないの。でももし・・・望むなら・・・連絡を取る・・・会いたい?」
「もちろんだぜ。もっとも何だか気恥ずかしいが。会いたいな」
「じゃあ連絡してみる。きっと・・・多分、会ってくれると思うけれど・・・」
「大丈夫さ、お前の姉さんが説得してくれるさ」
「そうね・・・。そうだ、大切なこと言い忘れていた、お姉様は結婚しているの、だから夫婦の養子になっているってこと。ねえ、誰だと思う?」
「誰って、俺が知ってる奴か?」
「そうよ! だ〜れだ!」
「おい、気を持たせるなよ、降参だ、教えてくれ」
*
くすっと笑うと駆け出した、子どもみたいに。
やっと追いついて捕まえようとすると、ひらりと蝶のように身を躱してまた逃げる。
ようやく大きな木に追い詰め抱き締め、息を弾ませているお前に口づけした。
きっと奴らには、女に骨抜きにされた情けない元革命闘士に見えているだろうな・・・そう思っておけ。
ユリアは碧い目をいたずらっぽく輝かせて言った。
「・・・ダーヴィト、よ!」
驚いた、腰が抜けるほど! ありえないことだ!
「あいつが? お前の姉さんと? 俺たちの子どもの父親だって?」
「そうよ、変な気分でしょ」
「ああ、まったくだ」
人生、まだまだ想定外のことが起きるもんだな。
「二人も大変だったと思う。戦争も政変もあって何もかも混乱したし、アーレンスマイヤ家の事業もうまくいっていなかったし、ね。それでもマリアを育ててくれたの。心から感謝している」
「そうだな、本当に多くの人に援けてもらっていたんだな、俺は自分のことだけで精一杯だったのに」
「・・・で、気がつかない? さっきの・・・ラジオの・・・」
「!? まさか! マリア! マリア・ラッセン! あれが、俺たちの?」
「そう! あなたの娘よ! あなたのバイオリンで!」
「俺の?」
「アナスタシアが・・・ウィーンでイザークに預けたのですって・・・」
「アナスタシアが・・・」
俺は、捨ててなどいなかったんだ。
人生は・・・引き継がれて・・・いくんだな。
一人だけでは・・・一世代だけでは・・・成し遂げられない思いもあるんだ。
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