翡翠の歌

14 もう一つの窓、再び




(1)



レオニードが逝ってしまって十年が経つ、昨日のことのように思えるけれど。


「ねえ、ヴェーラ、彼と・・・一緒に暮らしたら?  私たちのことは考えなくていいから」
「・・・そうね・・・でも、いいのよ、このままで」
「だって・・・」
「なあに?  私を追い出したいの?」
「嫌だ、そんな冗談!  水入らずっていう言葉もあるでしょう?」
「・・・ありがとう、でもね、本当にいいのよ、今のような気楽な関係で」
「・・・彼に重荷を・・・負わせなくないの、ね?」
「かも知れない。強い人だけれど、自分をしっかり持っている人だけれど、それだけにあの人たちのことを許せないって。あんまりのめり込んで欲しくないのよ」
「そう、ね。性急に白黒はつけられないわよね」
「だから、このままでいいの、今はね。また状況が変わったらちゃんと我儘を言うわ」
「我儘だなんて」
「あなたこそ・・・彼と・・・いいの? 今のままで」
「・・・ええ。皇室再興もなかなかうまくいかないようよ、一族の中で争って・・・。ああいった世界は私には向かない。時々会って・・・悩みを聞いてあげるだけ。でもね、自分の考えを言うと巻き込まれるから、そのことだけは気を付けているの」
「もう・・・無理でしょうね、話題にはなってももう現実には」
「そう、時は戻せないもの。でも不思議な感じよ。レオニードもアレクセイも・・・悩みを打ち明けることなどなかったから」


ヴェーラはサークと、私は・・・。
一人では生きていけない、女も、男も。
あなたもそうだったのね、レオニード。
そんなふうにはとても見えなかったけれど・・・。

あんなにもこだわっていた"妻"という立場。
今は・・・もう、どうでもいい、その場限りの安らぎで十分。
宝を守る力を保つための精神安定剤に過ぎないのだから・・・私の二つの宝・・・金色の、碧色の・・・。


*     *     *     *     *



(2)



近頃のエヴァは大人の話し方をするようになった。
少し口の軽いのが気になる。
誰に似たのだろう、レオニードも私も違ったはず。

でも二人とも境遇によっては、こんなふうに育ったのかもしれない。
あれが異常だったのだ。
何にも支配されない、私たちには許されなかった人生。
その分、思いっきり味あわせてあげたい。


*     *     *     *     *



「ねえ、お母様。お父様とどうして結婚したの?」
「えっ?」


突然のことに、ヴェーラも私も思わず息を呑んでしまった。


「アンナのお母様は学校のダンスパーティーで知り合ったのですって。サリーのお母様はお友達のお兄様と結婚したの。ねえ、お母様は?」


無言のまま顔を見合わせてしまう。
でもヴェーラの困った表情を見て、不意にいたずら心が湧き上がった。


「そうね。じゃあ、ヴェーラおば様を妬かせちゃいましょうか」
「?  本当のこと、教えるの?」
「そうよ、本当のことを教えるわ。こちらにいらっしゃい、エヴァ」


華奢な体を引き寄せ金髪を撫でながら話し始めた、戸惑っているヴェーラにウインクして。


「お母様はね、十三の時に、今のレニングラードにピアノのお勉強に行っていたの。そこでお父様にお会いしたの」


ヴェーラは怪訝な様子だ。それはそうだろう、出会いと言えば、その三年後からの修羅場しか知らないのだから。


「お会いしたのは二回だけ、それも立ち話みたいなものよ。お母様はすぐに故郷のドイツに帰ってしまって、そのことはすっかり忘れていたのだけど、お父様はね、その場所の真ん前のお屋敷を買い取ったのよ」
「買い取った?」
「そう。他の人が住んでいたところを、それは高いお金を払って。ネヴァ川の突堤のね。そうして時々そこの窓から、その場所を眺めていらしたらしいの。もしかしたらまた会えるかもしれないって」
「え?  お母様はドイツに帰られたのでしょう?」
「そう。本当ならそんな機会はなかったはずだったのだけれど・・・。でも偶然、お母様はドイツで出会ったロシア人が好きになって、帰国したその人を探してまたレニングラードに行ったの」
「お父様とは違う人よね?  お名前は?」
「・・・アリョーシャよ。そうして懐かしいあの場所に立っていたら、お父様が私を見つけて結婚することになったの。運命の再会、ということね」
「素敵!  みんなに自慢できるわ!  ? でも、でもアリョーシャは?  アリョーシャはどうしたの?」
「お母様を巡って二人で喧嘩したわ、そして最後にお母様がお父様を選んだのよ」
「どうしてお父様を選んだの?  アリョーシャを探して都に行ったのでしょう?」


選ばざるを得なかった・・・選ばされた・・・それが一番相応しい答えだろう。
でも、いい。
神様があの窓から彼に私を見つけさせたのだ、もう一つの窓から・・・。


「そうね・・・アリョーシャもね、素敵な人だった。亜麻色の髪で琥珀のように輝く瞳。やんちゃで口が悪くて、バイオリンがすごく上手で。彼とは音楽学校で出会ったの。その校舎の塔にはオルフェウスの窓と呼ばれる窓があって、男性がそこから見下ろした時、初めて目に入った女性と恋に落ちるという伝説なの。でもその恋は・・・オルフェウスとエウリディケの伝説に倣って必ず悲劇に終わると言われていた。アリョーシャとはその窓で出会って、一所懸命頑張ったけれど私たちはその伝説に勝つことができなかった」


エヴァは複雑な表情になった。


「でもね、お父様は別の窓からお母様を見つけてくれたのよ。あの時お父様が助けてくださらなければ、お母様は命がなかった。黒い髪で黒い瞳。引き込まれるような深い黒さ。そう、ヴェーラおば様と同じ。静かで寡黙で、でも意志の強いとても温かい方だった」
「・・・じゃあ・・・お母様はお父様と結婚して幸せだったのね?」
「もちろんよ。だってあなたを授かったのだから」


思いっきり抱き締めると、エヴァは満足したように抱き締め返してきた。


「さあ、もうベッドに入る時間ですよ。おば様にご挨拶して、お行きなさい」





「・・・あの屋敷、そうだったのね・・・。物に執着しないお兄様が珍しく拘って手に入れた。不思議に思ったものよ」
「案外と・・・随分なロマンチストだったのね。それなのに私がアレクセイのことを諦めないから辛く当たったのよ」


*     *     *     *     *



窓・・・。

十年前、泣き腫らした顔で見上げていたあの子。

チケットが届いた、サンフランシスコ交響楽団の・・・ここまで・・・。
お姉様、ダーヴィト、そしてイザーク・・・ありがとう、感謝します、心から。

金髪で碧い瞳、でも面差しは彼に。
そして弾き方も音色も、彼に。

あの・・・バイオリン・・・。
感謝します、アナスタシア。

ありがとう・・・レオニード。





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