翡翠の歌

19 出口を目指して




(1)



「それでは行ってきます。明後日は少し遅くなるけれど心配しないで」
「・・・最近よく出かけるのね。いえ、いけないって言っているのではないの。あなたにはあなたの仕事があるから。でも昨日も新聞に写真が載っていたわ。あまり目立つと良くないのでは?」
「そうね、気をつける」


本当のこと言えなくてごめんなさい、ヴェーラ。
あちこちのパーティーに行くのは、アメリカの人たちに私を覚えてもらうためなの。
写真も撮ってもらっておかないと、あとふた月の間に。


*     *     *     *     *



(2)



「ユリア・・・やっぱりお前は・・・お前までは・・・俺だけで、十分じゃないか?」
「・・・」
「お前にはエヴァやヴェーラがいる。これからも守ってやらないと」
「もう決めたことよ」
「だが・・・」
「アレクセイ・・・できるだけセンセーショナルにしないと、でしょ?  みんながいろいろと想像してくれるように。広く世論をまき起こせるかはそこにかかっているんでしょ?  できるだけ長くエヴァたちを守れるように。あなたが考えてくれたのじゃない、同志アレクセイ!」
「わかってるさ、わかってるが・・・」
「ありがとう、アレクセイ。気持ちは嬉しい、とても・・・。でも、もう決めたことよ」





本当は・・・逃げたいのかもしれない、あなたと・・・。
もう、疲れた・・・。
私、普通の女よ、ごく普通の。
夫と子どもとの普通の暮らしがお似合いの・・・。
スパイだの、国家機密だの、逃避行だの・・・。
望んでいない、何一つ。

疲れた・・・闘うことに。
ごめんなさい、弱くて・・・。

またアレクセイを失って生きていく強さなんて、もう私にはない。


*     *     *     *     *



(3)



俺の部屋は党が用意した高級アパートメントだ。
当然だが、隣の部屋では連中が聞き耳を立てている。
下っ端に判断の権限はないから、どうでもいいことまですべて記録して本国に送っているだろう、ご苦労なこった。
その中から本当に重要なことを抽出するのは更に大変な作業だろうな、俺たちは見かけによらずおしゃべりだからな、気の毒なこった。
だが重要なことなど、お前たちが聞き耳を立てているところで口にするもんか、俺たちが。



そうなんだ、部屋の中では当たり障りのない会話しかできない。
あるいは、敢えて連中に聞かせたいことしか。

憚る話は毛布の中に潜り込んで囁く。
限りある時間を割くのが愛の言葉だけでないのが残念だが。

もちろん、それだけで語り切れるものではない。
あんまり長く潜っていると怪しまれるからな。

愛し合う様子を知られることへのちょっとした腹いせのために、俺たちはロシア語をはじめ、英語、ドイツ語、フランス語をごちゃごちゃに取り混ぜて話す。
そこにユリアはウクライナ語やラテン語、イタリア語、スペイン語まで入れてくる。
連中はしっちゃかめっちゃかだろう、ざまあみろ。
俺も今ほどおばあさまのあの厳しい教育を感謝した時はないぜ。



肝心な話は、静かだがほどほどに人目のある公園で漫ろ歩きをしながら、だ、唇を読まれないよう気をつけてな。
そしてどんなに深刻な内容でも、表情は穏やかに時として笑い合い。
俺たちそれぞれの過去、そして少し先の未来のことについて十分に分かりあって、進むべき道を定めた。

もちろん、たまに立ち止まり抱き合って口づけも忘れないさ。
連中を安心させるためにもな。



俺たちはこう言った行動はお手のものだが、経験の浅いあの連中は、伝説の革命の闘士アレクセイ・ミハイロフも焼きが回って、昔の女に骨抜きにされたと信じるだろう。
彼女のことも見た目の儚さに惑わされ、寂しく不安な亡命先で再会した恋人に全幅の信頼を寄せる御しやすい女と思うだろう。
もう少しレベルの高い同志をつけるべきだったな。

だが奴はこの件を自分だけの手柄にしようと、直属の部下だけを使って半ば独断で計画を進めている。
しかも自身はこの国には来られない。
こっちとしては十分つけ込む隙があるわけだ。



奴は以前、ヴェーラを国外に連れ出そうしてあと少しのところでユリアに阻止された。
やっと現在の地位を得て、幹部の娘とも結婚し、更なる出世の為に失敗を取り戻そうと張り切ってやがる。

確かに利口で度胸のあるユリアは目障りな存在で、ユスーポフ侯爵家が持ち出した財産は少なくはないだろうが、彼女はただ攻撃から家族を守るためにアメリカに協力しているだけで、反共に人生をかけているわけじゃない。
財産だって国に残したほとんどは取り戻したんだから、問題山積の政府がこだわる額じゃないだろう。
だから、貴族、特に何故かユスーポフ侯爵家へ執念を見せるあの粘着気質の男が再び失脚すれば、エヴァたちへの攻撃も緩むだろう。





兄貴をはじめ、多くの人生と命をかけて成し遂げた革命。
その過程で俺も大勢を殺し見捨て、裏切り、騙し・・・。
一つ一つは人間として威張れたことではなかったが、永く虐げられた民衆を解放するという崇高で困難な目的のために犯してきた。

が、それで得た結果に今、俺は殺されそうになっている。
それだけなら報いとして静かに受け入れもするが、解放されたはずの人民が今度は皇帝に取って代わった共産党に弾圧されている。

俺は・・・俺たちは・・・何に人生を捧げたのだ。


「毒をもって毒を制する、って言うことじゃない?」


お前はまたきついことを言う。


「専制君主制という毒を、共産主義という毒で」
「毒とは思わなかったのだがな、俺もかつての同志たちも」
「本の中の思想は素晴らしくても実際にやるのは人間ですもの、人が毒に変えてしまったのかしらね」
「なら、何を信じても無駄か」
「毒を消したあとに、新しい何かが生まれると思う。愚かさだけではないでしょ?  人は」
「まあ、な。だが経験は引き継がれんからな、愚行を繰り返すんじゃないか?」
「そうね。でも・・・多分ロシア人って、専制が好きなのよ、でないと落ち着かない。何のかの言っても、辛くても不満があっても。頂点の形を変えた専制が続いていくんじゃない? ずっと」
「倒す奴と倒される奴が、いつの時代も存在していくのか」
「大丈夫。庶民はしたたかよ。愚かでも・・・したたかよ」





アメリカ。
この国も問題ばかりだが、強大になりつつある共産主義勢力に対抗できるのはここぐらいだろう。

イギリスやフランスの旧体制から独立してできた国、自由を標榜する国。
その分、それを否定する共産主義には生理的な嫌悪感がある。
まあ、手前勝手な自由を振りかざしている気もするがな。

これもまた、"毒を持って毒を制する"か。

ま、人生の最期に反共という毒薬を生み出すのに一役かってやろう。
作ったり壊したりと、俺の人生も全く、はちゃめちゃだな。



兄貴・・・俺の前にずっといた兄貴、そしてアルラウネ・・・いつの間にか二人の背は見えなくなっていた、存在すらもおぼろげに。

二人がいなければ、バイオリンにも革命思想にも出会わなかったろうか。
それなら、どんな人生を歩んでいただろうか。

だが二人のお陰でユリアに出会えた。
失った音楽家の道も裏切られた革命も、すべてを引き換えにして得たユリアとの人生、そしてマリア。

今度はそのユリアを生贄にして、皆を守ろう。





↑画像をクリック