翡翠の歌

09 火の手




(1)



皇帝陛下、皇后陛下、皇太子殿下、そして四人の皇女様方・・・。
殺されてしまった、エカテリンブルグで・・・混乱する情報の中、ようやく信頼できる筋から齎された。

それならば、この鍵はどなたに?

ずっとそればかりを考えている。
・・・おかげで・・・マリアを手放した葛藤から逃れられる・・・皮肉ね。

お姉様から手紙が届いた。
必ず守り育て幸せにすると・・・私の代わりに。
落ち着いたら連絡がほしい、そうしたらまた会って・・・。
自分たちもできるだけ早くアメリカに移住するから、と。

お願いします、お姉様。
いつまでも駄目な妹でごめんなさい。
返してくださったゲオルグス・ターラー。
これに守られて、私は私のすべきことをします、皆の為に。


*     *     *     *     *



どなたにお渡しするか、こんな役目まで負うことになるなんて。
レオニードは、私とヴェーラの為になるように決めてよいと。
そう、その時はわからなかったけれど、何よりもエヴァの為、よね。

何がエヴァの為になるのかしら。
帝政の復活?
革命の成就?
ロシアの安定?

帝政は・・・もう蘇ることはない、時代は彼らを必要としていない。
いくら莫大な財産をもってしても、人の心を取り戻すことはできない。

それならば、革命?

いいえ、革命政府は私たちの敵。
亡命しそこねた貴族や白軍に加わった軍人、それどころか、国のために敢えて都に残った高級将校ですら、どんな目に遭ったかが伝わってくる。
身の毛もよだつ扱いを受けて嬲り殺しにされた。
それは・・・それは、それまで私たちが革命家や民衆にやってきたこと・・・だけれど。
正当化するなんて、私にはできない・・・達観なんてできない。

安定?

いいえ!  いいえ!  混乱よ、混乱が必要、ずっと続く混乱が。
亡命者への追及が緩む為には・・・。





だとしたら、イギリスの皇太后様? ミハイル大公殿下? パーヴェル大公殿下? それとも、フランスのキリル大公殿下?

皇太后様の周りには皇族方を始め、主だった貴族たちが集まっているとか。
一方、キリル大公殿下には革新派の貴族たちが・・・。

そう言えば、あの亡国の徒、ラスプーチン神父の残党たちはどうしているのだろうか?
私利私欲だけで宮廷を蝕み国を傾けたあの者たち。
きっとまた内外で寄生虫のように宿主を探しているのだろう。
レオニードを侮辱し陛下から引き離し、そして私を辱めたあの者たち・・・彼らに渡したら?
いいえ、駄目よ。
どうせハイエナのように争って奪い合い、引き起こすのはせいぜい小競り合いだけ。
それでは駄目。

皇太后様?
お会いしたことはないけれど、陛下には煙たがられていたみたいね。
高貴な方には珍しく恋愛結婚された皇后陛下をドイツ人の上に、血友病の家系だと疎んじられていたって聞いた。
ラスプーチン神父への信仰を辞めるよう忠告もされたとか。

でも・・・所詮は、女、それも老い先短い。
陛下や孫たちを殺された恨みだけで、その恨みだけで動かれても・・・。
それに・・・アデール様も多分おそばにいらっしゃる。
私、お会いしたくない・・・きっと、アデール様も。
そうよ、孫娘の夫を奪ったドイツ人の私に、よい感情なんてない。

では、キリル大公殿下?
一度だけお目にかかったことがある。
舞踏会に招かれた。
あの時は・・・楽しかったわ。
レオニードと初めて踊った。
私は最初はぎこちなかったけれど、すぐに・・・。
すごく注目されて・・・恥ずかしかった、でも嬉しくもあった。

両陛下のご不興をかって遠ざけられていたレオニードを救ってくださった。
陛下よりずっと先見の明をお持ちだったのに・・・世襲ってうまくいかない。
大公殿下は帝政復活を目指しておられるのかしら。


*     *     *     *     *



「これを・・・お兄様からあなたに渡すようにって、カレンが預かってきていたの」
「手紙?」
「中は見ていないわ。お兄様は・・・もし記憶が戻ったら渡すようにと」


封を開けると一枚の紙が・・・ああ、あの手紙。





『元気です。子どもも無事生まれました。もう三歳。女の子。金髪で碧い瞳』 

ねえ、誰かの代筆なの?
・・・そうだ。知り合いでな、負傷した為、文字が書けぬのだ。夫がドイツ語しかわからん

『会いたい。居場所は手紙を届けた人が知っています。屋敷に協力者がいるから来てくれれば逃げられる』 

逃げられる?
ともかく、書いてくれ

『待っています。子どもに早く会わせたい。ユリア』 

え? 私?
いや違う。偶然だ





本当は・・・ずっと気にかかっていた、記憶が戻ってから。
でも、考えること、それ自体が怖くて。
また憎んでしまうのが恐ろしくて。


「どうしたの? 悪い知らせなの?」
「いいえ、いいえ、違う。いい知らせよ、とても」
「教えて、何なの、その手紙は」
「・・・これはね、亡命する半年くらい前だったかしら。ロシア語で書かれたものをドイツ語に訳して書いてくれってレオニードに頼まれたの。手を怪我した人の代筆で」


数行の手紙を読んだヴェーラはすぐに意味がわかったようだった。


「彼を・・・おびき寄せるための・・・あなたを使って・・・」
「そう。その時は私、何もわからなかった。ただレオニードの役に立つのならと言われた通り書いただけだった」
「・・・」
「でも・・・使わなかったのね。エヴァを授かったから、きっと」


書かせる時も、返す時も、どんなに葛藤しただろう。

ひどい人、と評するのは簡単なこと。
でも・・・帝国が、陛下が、自分の人生すべてを否定される時代の到来を何とか、何をしてでも押しとどめたかった彼が・・・その一つの手段を・・・。

ありがとう。

アレクセイの消息は今もわからないけれど・・・もしかしたら・・・もうこの世にはいないのかも知れないけれど・・・あなたが手を下さなくとも・・・。
でも・・・私の心を救ってくれた。

ありがとう。


*     *     *     *     *



(2)



アメリカへの亡命が受け入れられた。
フランスで生まれたエヴァは当面、二つの国籍を持つことになる。
きっとこのこともエヴァを守ってくれるだろう。

落ち着いた暮らしのためには歴史があり教育が行き届いた町、一方、亡命者には移民が多く、考え方も経済も開かれているところがよいと考え、ボストンに居を構えた。

そしてより安全を考えて、中心街に見つけた屋敷を買い取った。
由緒あるものらしく、最初のうちは、他所者に売るのは・・・という態度だったけれど、何事も結局はお金。
でも、目立ったり疎んじられたりしないよう、振る舞いには気をつけるから安心して。





そして・・・名前を変えることも考えた、ヴェーラも私も。
でも、やめた。
国を失い身分を失い、その上、名前まで失っては・・・。
もし革命政府が本気で追ってくるとしたら、どうやったところで早晩見つかる、ならば自分から自分を捨てることはないもの。


*     *     *     *     *



ここは・・・ロシアほどではないけれど寒く、雪も多い。
海に向かって続く平坦な街並は、帝都を思い出させる。

ヴェーラは住み心地のよい家にしようと張り切っている。
身元の確かな夫婦を住み込みで雇い、あれこれと家具を揃え内装に手を加えている。
妻は料理が得意だけれどロシアのには馴染みがない。
知り合った一家が料理人も連れて来ていたので、習いに行かせている、じきに上手くなるだろう。

日々のことはヴェーラに任せ、私は大公殿下に拝謁する準備を進めた。
情報を精査し、どうにかお住まいまではわかったけれど突然お尋ねしてお会いできるだろうか。
事前にお手紙を差し上げるべきだろうか。
いいえ、邸内にスパイがいる可能性もあるのだから、辿り着く前に捕まってしまう。
電撃的に行ってみよう、スパイが纏わりつく暇もないほどに。


*     *     *     *     *



出発の数日前になって初めてヴェーラにこの計画を打ち明けた。
私たちの間で今更秘密というわけではないけれど、聞けば多分、動揺してしまうから。
再び会えないかもしれないから。


「その時は、エヴァをお願いします・・・」
「どうしても行くの?  どうしても必要なの?  どのみち命懸けなら、このまま鍵のことは放っておけばよいのでは?」
「そう・・・ね、それも考えた。でも、これは私の役目だから。レオニードと約束したから。この鍵は・・・私たちを繋ぐ絆でもあったの。だから・・・行かせて」





まだ終戦の混乱が続く中、船を乗り継いでカレーへ、鉄道でニースへ。
十分警戒したからか、幸いここまでは何ごともなかった。
でもきっと、駅には張っているはず、各地から集まる亡命貴族を捕らえるために、蜘蛛の巣のように。
かなり手前の駅で降り、翌朝、宿で乗馬服に着替え、馬を調達した。


乗馬は得意よ!  見ていて、レオニード!


山道が続く。
途中で休みを取りながら、夕刻になってようやくお屋敷に着いた。
こういった突然の訪問者には慣れているらしく、門番もすんなり通してくれた。
でもこの人、きっと革命政府の・・・すぐに報告が行くだろう。


*     *     *     *     *



(3)



「殿下、ユスーポフ侯爵夫人がお目にかかりたいと、お越しになりました」


ユスーポフ侯爵夫人?
これは意外な客人だ。
確か退位直前に妹と共に亡命したはず。


「わかった。客間で待たせるように」


目的は何だ。
ただの思い出語りではあるまい。

一度だけ会ったことがある、あれは離宮でだったか。
気心の知れた者たちを集め、舞踏会を開いた。
あの堅物のユスーポフ侯爵は、その少し前に結婚した妻を同伴してきた。
姪のアデールと離婚し、数年後再婚した。
あのニコライがなぜ認めたのか、不思議に思ったものだ。

寄り添う二人は何者も入り難い雰囲気を醸し出していた。
噂ではもう長い間、囲っていたらしい。
それが離婚の原因か?
いや、そうではあるまい。
結婚当初からの宮廷内外での振る舞いは、国を離れていた私の耳にも届いていた。
私ですら不快に思ったほどだ、侯爵が面白いわけがなかろう。

それは美しかった。
少し痩せていたがそれが返って人間味を薄め、そう、天使か女神かのようだった。
輝く金髪を少しまとめて流し、ドレスは緩やかでシンプルなもの。
他の女たちの中で、彼女だけは別世界にいるようだった。
何より、侯爵を見つめるあの瞳、碧い碧い瞳・・・完全に夫を信頼し愛しているのが伝わってきた。

注目の中、二人は軽やかに踊った。
侯爵が強くリードし、夫人は彼の腕の中で蝶のように羽ばたいた。
飛んでいってしまいそうになると、侯爵は思わず引き戻しているようだった。
もしあの氷の刃と恐れられた侯爵の夫人でなければ、例え人妻でも言い寄る男は絶えなかっただろう・・・この私でさえも。





そして、あのピアノ・・・。

親しい者と共にサロンに場所を移しあれこれと話す中で、音楽を学んでいたと聞きつけた妃が是非にと所望し、断り切れなくなった彼女が弾いたあのピアノ!
ダンスといいピアノといい、そして立ち振舞いの全てが、娼婦上がりという噂を吹き飛ばしてしまった。
口さがない女どもは、侯爵ほどの名手とであれば誰でも踊れる、手慣らしと称して音楽室に行っているけれど逃げ出すほうに賭けるなどと言っていたが。


何より初めて目にした侯爵の満足気な表情・・・こんな妻ならばもっと自慢したいだろう。
だがそれ以降、私の招待も固辞し再び会うことはなかった。
聞いたところでは精神状態に波があったらしいが。

身を切られる思いで亡命させたに違いない、彼女の安全の為に・・・。
その彼女が何故ここに?  危険を犯して?





部屋に入ると、乗馬服姿の彼女は頭を垂れ腰を低く屈めた。
無事で何より、と声をかけると、殿下も、と美しいあのソプラノが返ってきた。
細い手を取り、かけさせた。


「駅から馬で?」
「はい、スパイがおりますから」
「・・・意外だな、そなたがそのようなことを気にするとは」
「殿下、私は・・・」
「よい、ここに来るのは命懸けだ。それを知ってのことなら、余程の用件だろう。何か?」
「この・・・鍵を・・・どうか」


彼女は結った髪から一つの鍵を取り出し、私に渡した。
無骨な金属が彼女の体で温められ、私をも温めてくれるようだ。


「これは?」
「皇室の、皇帝陛下の隠し財産の鍵です。フランクフルト・アム・マインのドイツ帝国銀行に預けてあります」
「隠し財産?  我が皇室の?」
「はい、このことは皇帝陛下とごく少数の側近、シャフナザーロフ侯爵夫妻、そして私の亡き夫しか知りません」
「何故そなたが?」
「私は・・・本名をユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤと申します。バイエルンの貴族の娘です。父はドイツ帝国陸軍諜報部の要職にありましたが、侯爵家を通じて、皇室の御為に動いておりました。その中で、将来起こりうる亡命の為に財産をお預かりしておりました」
「何と!」
「本来、陛下ご一家のどなたかにお渡しすべきですが、遺憾ながら皆様・・・もうこの世にはいらっしゃいません。それで、殿下に」
「どのくらいの財産か、そなたは知っておるのか?」
「詳しくは存じません。ですが父は、一国が買えるほどだと申しておりました」
「そうか・・・」
「それに・・・」
「?」
「同じようにフランスとイギリスにもあると聞いております。どなたが預かっているのかは存じませんが」
「なるほど・・・渡す先を失った今、その者たちがどう動くか、ということか」


考えもしなかった申し出に、不覚にも驚いてしまった。


「何故、私に?  皇太后様もおいでだろう」
「・・・殿下は、夫を重用してくださいました」
「・・・そうだ・・・そなたの夫は真に憂国の士であったな」


彼女は目を伏せ、涙を堪えているようにも見えた。
佞臣が幅をきかせる宮廷で、侯爵は最期まで貴族であった。


「そなたは・・・自分のものにしようとは思わなかったのか?  それほどの財産を・・・すでに夫もおらぬ、黙していても誰にも知られぬことだ」


その時の私を見返した彼女の瞳、忘れまい・・・。


「・・・思いもかけないお言葉にございます。私は・・・私は幼い時からこの鍵を守る為に生きて参りました。その中で、多くの人が死に傷つき、人生を狂わされました。私も人を殺めて参りました、この鍵を守る為に・・・」
「わかった。先ほどの軽軽な言葉は許せ。長きに渡るそなたの忠心、心より感謝する。そして、そなたを支えたユスーポフ侯爵の忠誠も肝に銘じよう」
「・・・殿下・・・」
「・・・そなたなら、この財産をどう使う?  我がロシアの為に」
「不遜に過ぎることでございます」
「構わぬ、申してみよ」
「・・・フィンランドとクリミア、そしてウラルの白軍を支援するのと併せ、教会を各地に建立いたします。正教会こそ私たちの心の拠り所です。革命政府になど犯されません」
「そなたは・・・さすがはユスーポフ侯爵の妻だな。あの侯爵が愛でた・・・」





その夜から彼女はわが屋敷に留まった、我が褥に。
息子が財産を引き出して私の元に移すまで・・・。
多少は抵抗したが、大公である私に逆らい切れるわけもない。

幼い頃から危険な目に遭ってきたのだろう、身体中に傷があった、銃、刃、鞭・・・。
我が皇室の、そして帝国の為か?  そなたに相応しくない傷跡は。


*     *     *     *     *



(4)



訪れてから二月あまり、私はようやく解放された・・・鍵の縛からも、殿下からも・・・。
ここに留まるよう言われた、愛人として・・・何不自由させないと。
どうして私はそう見られるのだろう・・・情けない。
そんなことをしたら、伯爵の言った通りになってしまう、ごめんだわ。

さあ、これでいい、彼らがあの財産をどう使おうと、本音を言えば私は構わない・・・。
すでにあの門番から革命政府に報告が行き、遠からず火の手はフランスで、そしてイギリスでも上がるだろうから。

ごめんなさい、カレン。
私のこの行動があなたやアレクサンドラに悪影響を及ぼしてしまうかもしれない。





ボストンに戻って暫くして、フランスやイギリスの貴族にも動きがあり、財産の存在が公となった。
呆れたことに、オーストリアのあるサナトリウムを始め、あちこちから皇女様の生き残りと称する者たちが声を上げ、更には、かつて御一家の亡命に手を貸さなかった各国の王室もそんなことはすっかり忘れて自分たちの所有権を主張して争い始めた。
勿論、革命政府も・・・。

大金は人の心を惑わせる、身分の貴賎を問わず・・・。

レオニード・・・これでいいわね?





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